2019/11/07

【秘宝】石田三成の聖徳太子(厩戸皇子)像

 


1600年10月21日に起きた関ヶ原の合戦。両軍合わせて約20万人が戦った戦国時代最大の戦は、中世最大の伝説を残した。

この伝説の主人公は関が原の勝者、徳川家康では無く、敗軍の将・悲運の武将石田三成の方です。

合戦ではわずか6時間で敗北を喫した三成は、伊吹山中へと逃げ延びたと言われており、その時しっかりと抱きかかえていたのは「聖徳太子木像」だっとといわれています。

その像は、代々受け継いできた石田家の家宝であったと伝えられています。

*聖徳太子(厩戸皇子)とは、大陸から仏教を導いた人物であり、信仰心の熱い戦国武将にとって聖徳太子は最も敬われた守り本尊でした。

しかし、三成の命運はわずか6日間で付きてしまいました。

敵方に捉えられた三成が、不思議な事にその時は聖徳太子木像を持っていなかったと言われています。

いったいどこへ消えてしまったのか?

長い間その行方は、三成の命とともに京都六条河原の露と消えたままでした。

あれからおよそ400年、国宝級とも言われる関ヶ原で消えた聖徳太子木像の謎

当時、石田三成は18万石の大名であり、豊臣秀吉にとても大事にされた大名でした。

その三成が、250万石の徳川家康に立ち向かった天下分け目の合戦舞台、関ヶ原合戦場。

今となっては強者達が夢の跡ですが、ここが聖徳太子木像の謎の始まりです。

石田三成敗走ルート

関ヶ原から伊吹山中に逃げ込んだ三成は尾根伝いに敗走し、滋賀県浅井町に立ち寄ったと言われています。

現在、この街の氏子頭を努めているの方の苗字は「石田さん」です。

また、三成を祀った「石田神社」がこの町にはあり、神社には、逃走中の三成が石を掘って作った「石仏像」が置かれています。

氏子頭である石田さんの先祖はこの地で庄屋をしていて。

逃げてきた三成に「かくまって欲しい」と頼まれ、当時は庄屋の建物がたっていた縁の下に2~3日かくまったと伝えられています。

その建物跡に「石田神社」が鎮座しています。

この地での捜索が落ち着き、三成が立ち去る時にかくまってくれたお礼にと、ご先祖は「石田」の性と、家紋「向かい鳩」を三成から授かったということです。

※鳩はもともと戦の守り神とされていました。

家紋「向かい鳩」

そして三成は次に、親元(母親の生まれ故郷)の滋賀県古橋の方へ向い山伝いに敗走を続けます。

石田三成の最後を伝える古文書

古橋の地にて当時庄屋さんだったお宅には、当時のことを知る貴重な資料が残されていて。

三成をかくまったとされる人物の子孫が、当時のことを伝え聞いたことを記した古文書です。

そこには、村に逃げてきた三成との出会いから、最後の捕物劇まで事細かに書かれています。

それによると、三成はある男の密告によって捕まったとされていまして…

関が原の戦場から逃げ延びて6日目のこと。

古橋の村人になりすました三成を、徳川の追っ手はいとも簡単に包囲し。

それは、他の村から古橋の村へ来ていた婿養子の密告がきっかけとなったのです。

※それ以来、古橋町は昭和27年までよその土地より婿養子をもらうことはなかったという。

また、古文書によると三成は「敦賀」に逃げることを考えていたと記されています。

当時敦賀は日本海側きっての港町、すでに戦国時代には交通の要所として、また海運業の拠点として大いに栄えていた場所です。

そのきっかけとなったのが、大坂から遠く北海道まで就航していた「北前船」であります。

三成はこの北前船に乗り込み、安心できる土地まで逃げようとしていました。

その土地こそが能登半島でした。

なぜ聖徳太子(厩戸皇子)木像だけが石田三成の手を離れ能登に来たのか?

三成が家来に聖徳太子木像を託し、「能登に逃れよ」と命じた可能性が高いです。

その理由は、能登には三成の同士であり親交も深かった「能登七尾城主 前田利政」がいたからです。

石川県輪島市門前町は北前船の港として栄えた古い街で、街には江戸時代からの古い家並みが広がっています。

また当時の門前町には、曹洞宗の大本山が置かれており「禅の町」とも言われています。

そんな歴史ある町、門前町安代原にあるのが得蔵寺。

得蔵寺は、室町時代に開かれた名刹であり、住職は代々「石田性」です。

ここに「石田三成の聖徳太子像」が400年以上もの間置かれています。

聖徳太子木像と共にこの寺に伝わる「由来書」にはこんな一節があります。

慶長年中美濃ノ国関ヶ原出陣ノ砌、味方二勝利ナキヲ考エ
我ガ甥 石田左兵衛尉政成ヲ招キ、皇太子(聖徳太子)等ノ御伴イタシ
北国ヘ退クベシ、再ビ時節モイタリナバ御太ヲ、還御スベシト涙モロトモ別レヲ告ゲケリ

この由来書からも、三成は聖徳太子木像を持って逃げたのびた後に、再決起を図っていたのではないかと思われます。



なぜ聖徳太子木像がそこまで大事にされていたのか?

聖徳太子(厩戸皇子)とは、大陸から仏教を導いた人物であり、信仰心の熱い戦国武将にとって、聖徳太子は最も敬われた守り本尊でした。

今日残されている聖徳太子像は、どれも国宝級の名品ばかりです。

・孝養太子像(元興寺)
・孝養太子像(法隆寺)

三成が肌身離さず大切にしていた聖徳太子木像であれば、どれだけ貴重なものか容易に想像できます。

また三成の聖徳太子像は木製であり、14世紀、室町時代頃に作られたものと見られています。

聖徳太子像は、15,16歳のお姿を形にしたもので。

もともとは彩色されていましたが、現在は退色しています。(当時は非常にキレイな彩色と見られています)

上記の情報を元に以下に「石田三成の聖徳太子木像」の現在のお姿を載せさせていただきます。

石田三成守り本尊「聖徳太子木像」保全のための【聖徳太子像保全基金】

400年以上に渡り当寺で守り続けて来ておりますが、2007年3月25日にマグニチュード6.9を記録した「能登半島地震」が転機となりました。

特に、当寺のある石川県輪島市門前町は最大震度7近くを観測し大きな被害を受けました。

江戸末期からの構造を多く残す慈徳山得蔵寺も倒壊は免れましたが、古い木造故に大きな隙間や穴が開くなどの損傷を受け、聖徳太子木像を本堂へ置いておくことができない状態となりました。

あれから10年、何とかお寺の維持を地元の方々のお布施と寄付で維持して来ました。

しかし、今後100年歴史的な文化財である石田三成の聖徳太子木像を守っていく上で、長期的な維持管理、寺院運営を行う為に檀家の皆さんに加え、幅広く慈徳山得蔵寺の活動に賛同していただける方々から随時の喜捨と寄付をお願いさせていただく目的で「保全基金」を設立させていただくこととなりました。

様々な方法を検討した上での決断でございます、ご理解いただければ幸いです。

保全基金お申込みはこちら。

 

聖徳太子像 紹介映像

こちらの動画は、何年も前に「石田三成の聖徳太子木像」をお宝発掘という目的で特集した映像になります。

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