「他力本願(たりきほんがん)」という言葉は、日常でもよく耳にしますが、本来の仏教用語としての意味は誤解されがちです。
「人任せにする」「自分では努力しない」という消極的な意味で使われることが多い一方で、浄土真宗においてはまったく異なる、人生を支える力強い教えなのです。
本記事では、「他力本願」の本来の意味や、現代社会でその考え方がどのように私たちの心を救ってくれるのかについて、浄土真宗の視点から解説します。
目次
他力本願の本当の意味は何ですか?
「他力本願」とは、「阿弥陀如来(あみだにょらい)の本願(約束)にお任せして生きる」という信仰のあり方を指します。
決して「他人任せ」や「努力放棄」という意味ではありません。ここでの「他力」とは、阿弥陀仏の「はたらき」や「力」そのものを指します。そして「本願」とは、「どんな人も決して見捨てず、必ず救う」という阿弥陀様の誓いのことです。
つまり、自分の小さな計らい(自力)でどうにかしようともがくのではなく、自分を超えた大いなる阿弥陀様のはたらき(他力)を信じ、その流れに身を委ねて生きるという、非常に積極的で安心に満ちた生き方を意味しています。
なぜ「自分の力(自力)」だけではダメなのですか?
私たち人間は「煩悩(ぼんのう)」を持っており、自分の力だけで完全に清らかな生き方を貫くことには限界があるからです。
仏教には、厳しい修行で自らを高める「自力(じりき)」の道もあります。しかし、浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、どれほど修行しても怒りや欲、妬みを捨てきれない自分自身の姿(悪人・凡夫)を深く見つめました。
「自分の力で悟りを開こうとしても無理だ。だからこそ、阿弥陀様の救いにお任せするしかない」
このように、自分の弱さや限界を正直に認めたからこそたどり着いたのが、「他力」の道なのです。
自力で頑張ることを否定するわけではありません。しかし、「自分の力だけで何とかできる」という過信は、うまくいかないときに自分を責めたり、他人を見下したりする苦しみ(慢心)を生む原因にもなります。[

現代社会で「他力本願」をどう活かせばいいですか?
「自分でコントロールできないこと(結果)は任せ、今できること(原因)に集中する」という姿勢が、心の重荷を下ろしてくれます。
仕事や子育て、人間関係において、「こうあるべき」「もっと頑張らなきゃ」と自分を追い込んでいませんか? 他力本願の教えは、私たちに「どうにもならないことは、阿弥陀様にお任せしていいんだよ」と教えてくれます。
念仏を称えることにどんな意味がありますか?
「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と称えることは、阿弥陀様の救いを信じ、「ありがとうございます」と感謝して生きる姿勢の表れです。
念仏は、「称えないと救われない」という義務ではありません。「阿弥陀様、私のことを守ってくださってありがとうございます」という、安心と感謝の言葉です。
つらい時や悲しい時、つい「どうして私だけ」と思ってしまいますが、念仏を称えることで「一人ではない、仏様が見守ってくれている」という感覚を取り戻せます。 この安心感こそが、自分をはからわず、ありのままの自分で生きていくための土台となるのです。
おわりに
「他力本願」は、決して無責任な言葉ではありません。 それは、「自分ひとりで頑張らなくても大丈夫」という、阿弥陀様からの温かいメッセージです。
自分の弱さを認め、大いなる力に身を委ねることで、私たちは初めて本当の意味で強く、優しくなれるのかもしれません。
今日からは、自分を責めるのをやめて、「南無阿弥陀仏」とつぶやきながら、肩の荷を少し下ろしてみませんか? きっと、今までよりも少し楽に、穏やかな景色が見えてくるはずです。
南無阿弥陀仏





















私は以前、悩んでいる人に対して「努力は報われる」「自分でなんとかしなさい」といった言葉が、かえってその人を追い詰めてしまうことに気づきました。 私たちは子供の頃から「人をアテにするな」「自力で頑張れ」と教わってきました。しかし、人生には自力ではどうにもならない宿業や縁があります。 親鸞聖人が説く他力本願は、そうした「自分ではどうにもならないこと」に心を奪われず、煩わされずにいるための知恵です。 「結果は阿弥陀様にお任せする」と腹をくくることで、かえって肩の力が抜け、目の前の仕事や生活に対して、素直にベストを尽くせるようになるのです。