「こんな気持ちさえなければ、もっと楽に生きられるのに」
あなたにも、そう思った夜があるのではないでしょうか。人をうらやむ気持ち。抑えきれない怒り。手放せない欲。
多くの人は、こうした心を「なくすべきもの」と考えています。
でも、仏教には「煩悩即菩提(ぼんのうそくぼだい)」という言葉があります。煩悩即菩提とは、心を乱す煩悩と、仏のさとりである菩提は、別々に切り離されたものではないという意味の言葉です。
この記事では、煩悩即菩提の意味と読み方、「菩提」という言葉そのものの意味を、身近な場面に置き換えてお伝えします。あわせて、浄土真宗のお寺である得藏寺がこの言葉をどう受け止めているかもお話しします。
煩悩即菩提の意味とは、煩悩と悟りは別々ではない
煩悩即菩提は、大乗仏教で語られてきた言葉です。
ひと言でいうと、「迷いの心と、さとりは、遠く離れた別のものではない」ということです。
煩悩即菩提の読み方と、文字ごとの意味
読み方は「ぼんのうそくぼだい」です。
4つの部分に分けると、意味がつかみやすくなります。
「煩悩」は、心を乱し、悩ませるはたらきのこと。「即」は、そのまま、切り離せない、ということ。「菩提」は、仏のさとりのことです。
つまり煩悩即菩提とは、「煩悩とさとりは、そのまま切り離せない関係にある」という意味になります。
「煩悩をいくら抱えていても、それがそのままさとりだ」と、あなたは受け取るかもしれませんね。
でも、そういう意味ではありません。煩悩をなくしたその先に、別の世界としてさとりがあるわけではない。そう見る言葉なのです。
たとえば、手のひらと手の甲を思い浮かべてみてください。表と裏で見え方は違っても、1枚の手であることに変わりはありません。
煩悩とさとりも、遠くに分かれて置かれているのではない。迷っているこの身の、すぐ足もとに目覚めの道がある。煩悩即菩提は、そのことを短い4文字で言い表しているのです。
菩提とは、さとりと目覚めのこと
「菩提とは何だろう」と、この言葉だけを調べる方も少なくありません。
菩提は、古代インドの言葉「ボーディ」に漢字の音を当てたものです。意味は、さとり、目覚めです。
迷いから目が覚めて、物事をありのままに見られるようになった状態。仏教では、それを菩提と呼んできました。
この言葉は、仏教の外でも身近なところに残っています。
たとえば「菩提寺(ぼだいじ)」。先祖のお墓があり、葬儀や法事をお願いするお寺のことです。もとは、先祖の菩提を弔うお寺という意味の呼び名です。
また「菩提を弔う」という言い方もあります。一般には、亡くなった方のために仏事を営み、供養するという意味で使われています。
ふだん何気なく使う言葉の中にも、仏教の「目覚め」が息づいているのです。
煩悩とは、心を乱し悩ませるはたらき
一方の煩悩は、心を乱し、自分も人も苦しめる心のはたらきです。
仏教では、その根っこを3つにまとめて三毒(さんどく)と呼んできました。むさぼる心、怒る心、物事の道理に暗い心です。
年の瀬に鳴らす除夜の鐘と結びつけて、百八の煩悩という言い方もよく知られています。
数え方はいろいろあっても、言いたいことは同じです。人の心には、思い通りにならない動きが数えきれないほどある、ということです。
煩悩がどんなものか、もう一歩くわしく知りたい方は、煩悩の記事もご覧ください。
煩悩を抱えた身のまま、仏の教えを日々の中で聞いていく道もあります。得藏寺では、今の仕事や暮らしを続けたまま得度(僧侶になる儀式)を受けることができ、剃髪も求めていません。その道は、得度についてのページでご案内しています。
煩悩を数えて落ち込む必要はありません。今日いちばん心を占めた感情を、ひとつだけ名前で呼んでみればいいのです。
煩悩とさとりは、遠く離れた別の場所にあるわけではない。
くわしくは煩悩の記事をご覧ください。
人生を変えるのに修行はいらない、浄土真宗の視点
仏教というと、厳しい修行で煩悩を断ち切り、さとりを開くものと思われています。
でも、浄土真宗の受け止め方は少し違います。
煩悩を自分の力で断ち切る難しさ
怒らないと決めた朝に、また誰かに腹を立ててしまう。
欲を手放そうとした日に、また何かが欲しくなる。
あなたにも、そんな覚えがあるのではないでしょうか。煩悩は、なくそうとすればするほど、その存在に気づかされるものです。
仏教では、煩悩を抱えたまま生きる人のことを凡夫(ぼんぶ)と呼びます。浄土真宗では、凡夫が自分の力だけで煩悩を断ち切るのはとても難しい、と見つめます。
それは、あきらめではありません。自分の姿を正直に見るところから、救いの話が始まるのです。

正信偈の「不断煩悩得涅槃」
親鸞聖人は、正信偈(しょうしんげ)の中で「不断煩悩得涅槃」と述べています。
つまり、煩悩を断ち切れないままでも、阿弥陀仏の本願のはたらきによって、涅槃(さとりの境地)へ導かれるということです。
阿弥陀仏の本願とは、迷い苦しむすべての者を必ず救うと誓った、阿弥陀仏の願いのことです。
煩悩を消してから救われるのではありません。煩悩を抱えたこの身のままで、救いの中に入れられていく。
浄土真宗では、煩悩即菩提という言葉を、このような筋道で受け止めています。
くわしくは阿弥陀仏の四十八願の記事をご覧ください。
特別な場所や時間がなくても聞ける教え
忙しい毎日の中で、山にこもる時間をつくるのは難しいものです。
でも、阿弥陀仏の願いは、修行を終えた人だけに向けられたものではありません。仕事をしている今も、家事に追われている今も、変わらずはたらいています。
まずは、煩悩を消そうと力むのを、少しだけ休めばいいのです。
煩悩を断てないこの身のまま、救いの中にいる。
煩悩を持つすべての人へ、誰も置き去りにしない教え
自分の中の醜い気持ちに気づいたとき、多くの人は自分を責めます。
「こんなことを思う自分は、だめな人間だ」と。
煩悩があるから救いの外、ではない
でも、阿弥陀仏の願いは、煩悩のない立派な人を目当てにしたものではありません。
煩悩を抱え、自分ではどうにもならない者をこそ、救いの目当てにしている。浄土真宗では、そう受け止めます。
だからといって、煩悩を「よいもの」として開き直るわけではありません。煩悩は、今も自分や周りの人を苦しめています。
その事実から目をそらさないまま、それでも見捨てられていない。この2つを同時に受け取るところに、浄土真宗の安心があるのです。

念仏、南無阿弥陀仏とは
阿弥陀仏の願いにお任せする心は、「南無阿弥陀仏」の念仏として口からこぼれます。
念仏は、煩悩を消すための呪文ではありません。煩悩を抱えたまま救われていくことへの、よろこびの声です。
念仏の意味は、次の記事でくわしくお伝えしています。
くわしくは念仏(南無阿弥陀仏)の記事をご覧ください。
自分を責める言葉が浮かんだら、その場で「南無阿弥陀仏」とひと声となえてみればいいのです。
醜い心を抱えたままでも、見捨てられてはいない。
浄土真宗の教え、親鸞聖人と煩悩即菩提
ここまでの話を、もう一度まとめてみましょう。
煩悩即菩提は、もともと「煩悩とさとりは切り離せない」という大乗仏教の言葉です。
浄土真宗では、この言葉を、凡夫が煩悩を断たないまま、阿弥陀仏の本願によって救われるという教えにつなげて受け止めています。
煩悩があるからこそ、菩提への道が開かれる
自分の煩悩に気づかない人は、救いを求めることもありません。
「自分の力ではどうにもならない」と知ったとき、はじめて阿弥陀仏の願いが自分に向けられていたと気づかされます。
その意味で、煩悩は救いから遠ざける壁ではなく、救いに気づかせてくれる入り口にもなります。
これが、浄土真宗から見た「煩悩があるからこそ、菩提への道が開かれる」という受け止め方です。

煩悩と付き合いながら暮らすために
煩悩は、明日も明後日も起こります。
イライラした。人と比べて落ち込んだ。欲しいものが頭から離れない。
そのたびに「また煩悩が出た」と気づくだけで十分です。気づいた自分を責める必要はありません。
煩悩に気づくことは、自分の姿を少し正直に見ることでもあります。人の煩悩にも、少しやさしいまなざしを向けられるようになるかもしれません。
気づいたら念仏をひと声。それを繰り返していけばいいのです。
煩悩は、救いに気づかせてくれる入り口でもある。
煩悩即菩提に関するよくある質問
煩悩即菩提の読み方は?
「ぼんのうそくぼだい」と読みます。「即」は「そく」、「菩提」は「ぼだい」です。
菩提とはどういう意味ですか?
菩提は、古代インドの言葉「ボーディ」に漢字の音を当てたもので、さとり、目覚めという意味です。菩提寺や「菩提を弔う」の菩提も、同じ言葉からきています。
煩悩即菩薩とはどう違いますか?
「煩悩即菩薩」は、煩悩即菩提の書き間違いや言い間違いとして見られる形です。菩薩は、さとりを求めて歩む者のことで、菩提(さとり)とは別の言葉です。正しくは「煩悩即菩提」です。
煩悩はなくさなくてもいいのですか?
煩悩を「よいもの」として開き直る教えではありません。ただ浄土真宗では、凡夫が自分の力で煩悩をなくしきるのはとても難しいと見つめます。そのうえで、煩悩を断てないまま阿弥陀仏の本願によって救われる道を大切にしています。
まとめ、煩悩即菩提を暮らしの中で受け止める
煩悩即菩提とは、心を乱す煩悩と、仏のさとりである菩提は、別々に切り離されたものではないという意味の言葉です。
菩提は、さとり、目覚めのこと。菩提寺や「菩提を弔う」にも、その言葉が残っています。
浄土真宗では、正信偈の「不断煩悩得涅槃」を大切にしています。煩悩を断てない凡夫が、そのまま阿弥陀仏の本願によって救われると受け止めているのです。
今日ひとつ、心に引っかかった気持ちを思い浮かべてみてください。そして、それを抱えた自分のまま、「南無阿弥陀仏」とひと声となえてみてください。それが、煩悩即菩提を暮らしの中で受け止める最初の一歩です。
参照
・愛葉宣明『人生を変えるのに修行はいらない』白夜書房 https://www.byakuya-shobo.co.jp/book/b10025013.html



















僧侶、著述家、仏陀倶楽部(BuddhaClub)代表
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校卒業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す
現在は誰でもすぐ「得度」をできる活動を推進中。
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