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はじめに:人を助けたい、でも自分は…?
「困っている人を助けたい」「少しでも社会の役に立ちたい」「生きとし生けるものの苦しみを和らげたい」—— このような、他者を思いやる心、利他的な願いは、人間が持つ最も尊い感情の一つではないでしょうか。仏教においても、特に大乗仏教では、すべての生きとし生けるもの(一切衆生)を苦しみから救おうとする「菩薩(ぼさつ)」の精神が理想とされています。
しかしその一方で、私たちはしばしば「人を助ける前に、まず自分自身がしっかりしなければ」「自分に余裕がなければ、人を助けることなんてできない」と感じることもあります。心や生活が不安定な状態で、他者のために何かをしようとしても、空回りしてしまったり、かえって負担になってしまったりするかもしれません。
そんな時、「我々が一切衆生を救うためには、まず自己を救わなければならない」という言葉が、あたかも真理のように響くことがあります。この言葉は、一見すると理にかなっているように聞こえます。まず自分自身が確立し、満たされ、救われて初めて、他者を真に救うことができるのではないか、と。
しかし、この言葉は本当に仏教的なのでしょうか?もしそうなら、それは具体的に何を意味するのでしょうか?仏教でいう「自己を救う」とは、単に経済的・精神的に安定することなのでしょうか?そして、「自己を救う」ことと「他者を救う」ことの関係は、常に「自己が先、他者が後」という単純な順番なのでしょうか?
この記事では、この示唆に富んだ言葉を入り口として、仏教における「救い」、そして「自己」と「他者」の関係性について深く掘り下げていきます。様々な仏教の考え方、特に日本の仏教に大きな影響を与えた浄土真宗の視点を交えながら、この言葉の真意と、現代を生きる私たちにとっての意味を探っていきましょう。
「自己」と「他者」を巡る仏教の基本的な視点
まず、仏教が「救い」や「自己」「他者」について、どのように考えているのか、基本的な視点を確認しておきましょう。
仏教における「救い」とは何か?
仏教でいう「救い」は、単に一時的な困難や悩みから解放されること(現世利益)だけを意味するのではありません。より根本的には、私たちが生まれ変わり死に変わりを繰り返す迷いの世界(輪廻:りんね)から完全に解脱し、一切の苦しみ(ドゥッカ)が消滅した究極の安らぎの状態、すなわち「悟り(菩提:ぼだい)」や「涅槃(ねはん)」に到達することを指します。
この苦しみの根本原因は、物事の真理に対する無知(無明:むみょう)や、尽きることのない渇望・執着(煩悩:ぼんのう)にあるとされます。したがって、仏教的な意味での「救い」とは、智慧を得て無明を断ち、煩悩を克服することによって、心のあり方を根本的に変容させることを目指すのです。
大乗仏教の理想:菩薩と「自利利他円満」
仏教の中でも、特に日本に伝わった大乗仏教では、「菩薩(ぼさつ)」という存在が理想とされます。菩薩とは、自らも悟りを求める修行(自利行)をしつつ、同時に、自分よりも他者(一切衆生)の救済を優先し、そのために尽力する(利他行)存在です。
菩薩の誓願(せいがん)は、「すべての人々を悟りの彼岸に渡すまでは、自分は涅槃に入らない」という、広大で深い慈悲に基づいています。この大乗仏教の精神においては、「自利(じり)」と「利他(りた)」は決して対立するものではなく、むしろ「自利利他円満(じりりたえんまん)」、つまり、自らを高めることがそのまま他者の利益となり、他者を利することが自らの完成に繋がる、という一体の関係にあるとされます。
この「自利利他円満」の考え方からすれば、「まず自己を救う(自利)」ことが、「他者を救う(利他)」ための重要なステップ、あるいは前提条件となる、と解釈することも可能です。十分な智慧と慈悲を身につけていない者が、どうして他者を正しく導き、救うことができるだろうか?というわけです。
「自灯明、法灯明」の教え:自己への探求
また、お釈迦様が入滅される直前に弟子たちに残されたとされる「自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)」という教えも、「まず自己」という側面を考える上で参考になります。これは、「他人や他のものに頼るのではなく、自分自身を灯火(ともしび)とし、拠り所としなさい。そして、法(真理、仏の教え)を灯火とし、拠り所としなさい」という意味です。
この教えは、他者に依存する心を戒め、主体的に自己と向き合い、真理を探求することの重要性を強調しています。これもまた、他者救済の前に、あるいはそれと並行して、自己自身の確立や真理への目覚めが不可欠であることを示唆していると受け取れます。
問いへの応答:「まず自己を救う」ことの様々な意味
ここまで見てきたように、仏教の中にも「まず自己を」と解釈できる要素は存在します。しかし、その「自己を救う」という言葉が具体的に何を意味するのかは、文脈によって大きく異なります。
日常的な意味での「まず自分」:余裕と健全さ
最も一般的で分かりやすいのは、日常的なレベルでの「まず自分」という考え方でしょう。
- 物理的・経済的な余裕: 自分が飢えていたり、生活に困窮していたりする状態で、他者に食料や金銭を与えることは困難です。まず自分の生存基盤を確保することが、他者を支援するための前提条件となる場合があります。
- 心理的な健全さ: 精神的に不安定だったり、自己肯定感が極端に低かったりする状態で、他者の悩み相談に乗ったり、サポートしたりすることは、かえって共倒れになったり、相手を傷つけたりする危険性があります。自分自身の心をケアし、ある程度の安定を保つことは、他者と健全な関係を築く上で重要です。よく言われる飛行機の酸素マスクの例え(緊急時には、まず大人が自分のマスクを着けてから子供のマスクを着ける)も、この文脈で理解できます。
- 自己愛と他者愛: 心理学などでも、自分自身を適切に愛し、受け入れることができて初めて、他者を真に愛し、受け入れることができる、と言われることがあります。自己否定の強い人が、健全な形で他者貢献をすることは難しいかもしれません。

これらの「まず自分」は、現実的な生活を送る上で大切な視点です。しかし、これらは必ずしも仏教が目指す根本的な「救い」と同じ次元とは言えません。あくまで、より良く生きるための「前提条件」や「心構え」に近いものと言えるでしょう。
仏道修行における「まず自己」:自力による完成への道(聖道門)
仏教の伝統的な修行道(特に「聖道門(しょうどうもん)」と呼ばれる、自力で悟りを目指す教え)においては、「まず自己を救う」ことは、より厳密な意味を持ちます。
- 自己浄化と智慧・慈悲の獲得: 厳しい戒律を守り、瞑想(禅定)によって心を集中・統一し、仏の教えを深く学んで智慧を得る。このような自力による修行を通して、自身の煩悩を断ち切り、心を浄化し、完全な智慧と慈悲を身につけること。これが、聖道門における「自己を救う(自利)」ことの内実です。
- 他者救済の能力: このようにして自己が完成して初めて、他者を迷いから救い出し、正しい道へと導くための確かな能力と資格を得ることができる、と考えられます。未熟な者が他者を導こうとすれば、共に迷ってしまう危険性があるからです。
- 困難な道: しかし、この自力による自己完成への道は、非常に険しく、困難であり、限られた才能と環境、そして長い年月を必要とするとされています。特に、お釈迦様の入滅から時代が下り、人々の能力が低下したとされる「末法(まっぽう)」の時代においては、この道を成就することはほとんど不可能である、と考える仏教者も多く現れました。
浄土真宗における「救い」の順番:他力による転換
ここで、日本の仏教に大きな影響を与えた親鸞聖人が開かれた浄土真宗の視点を見てみましょう。浄土真宗(「浄土門」とも呼ばれる)では、「自己を救う」ことと「他者を救う」ことの関係性が、聖道門とは大きく異なる形で捉えられています。
根本的な問い:凡夫は「自力」で自己を救えるのか?
浄土真宗の出発点は、私たち人間(凡夫)は、どれほど努力しても、自らの力では断ち切ることのできない深い煩悩(貪欲、怒り、愚痴など)を抱えた存在である(煩悩具足の凡夫)、という厳しい自己認識にあります。親鸞聖人は、ご自身をも含め、そのような人間を「悪人」とまで表現しました。(ここでいう「悪人」とは、道徳的な悪人というより、仏の悟りの観点から見て、煩悩から離れられない存在、という意味です。)
この立場からすると、凡夫が自らの力(自力)で修行を完成させ、「自己を救う」ことは、極めて困難、あるいは不可能である、と考えられます。聖道門が示すような自己完成への道は、私たち凡夫にとっては閉ざされているに等しい、というのです。
阿弥陀仏の「他力」によって「まず自己が救われる」
では、凡夫は救われないのでしょうか? 浄土真宗は、ここに阿弥陀仏(あみだぶつ)という仏様の、広大無辺な慈悲と本願力(他力:たりき)による救済の道がある、と説きます。
阿弥陀仏は、すべての衆生を必ず救い、ご自身の浄土(極楽浄土)に生まれさせたいという誓願(本願)を建てられ、その誓願はすでに成就している、とされます。私たち凡夫は、この阿弥陀ぶつの誓願を疑いなく信じ(信心:しんじん)、その救いにすべてを任せ、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と念仏を称えることで、阿弥陀仏の力(他力)によって、この身このままで救われる(往生が定まる)のだ、と教えます。
この救いは、死後だけでなく、信心が定まった時点(信心決定:しんじんけつじょう)で、現生においてすでに救いが確定した身(現生正定聚:げんしょうしょうじょうじゅ)となるとされます。
つまり、浄土真宗においては、まず自己が(他力によって)救われる」ということが、何よりも先に起こるのです。それは、自分の努力や能力による「自己救済」ではなく、阿弥陀仏からの一方的な恵みとしての「救済」です。
救われた者の自然な発露としての「利他」:報恩感謝の生き方
それでは、他力によって「まず自己が救われた」者は、その後どうなるのでしょうか? 浄土真宗では、「他者を救わなければならない」という義務感や目標として「利他行」を捉えるのではありません。
むしろ、阿弥陀仏によって煩悩具足のこの身のまま救われたことへの、深い喜びと感謝の念(報恩感謝:ほうおんかんしゃ)から、自ずと他者への思いやりや、できる範囲での貢献の心が生まれてくる、と考えます。
それは、菩薩のように積極的にすべての衆生を救済しようとする壮大な「利他行」とは異なるかもしれません。しかし、身近な人々への優しい眼差し、困っている人への共感、仏法を伝えていくことなど、「せずにはいられない」という自然な心の動きとして現れる、温かい利他の実践です。
これは、「自己が救われたから、次は他者を救う番だ」という直線的な順番というよりは、「自己が救われたことへの感謝が、そのまま他者への慈しみの心となって溢れ出す」という、より自然で循環的な関係性と言えるでしょう。
「自利即利他」の異なる意味合い
浄土真宗においても「自利即利他」という言葉が使われることがありますが、その意味合いは聖道門とは異なります。阿弥陀仏の救いを信じ、念仏を称えること(一見、自利のように見える行い)は、阿弥陀仏の「すべての衆生を救いたい」という本願に合致する行いであり、結果として、阿弥陀仏の衆生救済の働きに貢献することになる。つまり、信じ念仏することが、そのまま他者の利益にも繋がるのだ、という捉え方です。
「まず自己を救う」ことの再考:多様な解釈と共通の基盤
ここまで見てきたように、「我々が一切衆生を救うためには、まず自己を救わなければならない」という言葉は、その文脈によって、また「自己」「救う」という言葉をどう定義するかによって、様々な解釈が可能です。
- 日常的なレベルでは、他者支援の前提としての自己の安定。
- 聖道門(自力)の立場では、他者救済能力の獲得のための自己完成。
- 浄土門(他力)の立場では、他力による自己の救済が先立ち、報恩感謝として利他が現れる。
どの解釈が唯一絶対的に正しい、ということではありません。仏教には多様な門があり、それぞれの立場から「救い」への道が示されています。
しかし、どの立場に立つにしても、「自己」への深い洞察が不可欠であるという点は共通していると言えるでしょう。
- 日常的なレベルでも、自分の心身の状態や能力を客観的に知ることが大切です。
- 聖道門では、自己の煩悩と向き合い、それを克服するための厳しい内省が求められます。
- 浄土門では、自己の非力さ、煩悩から離れられない「悪人」としての姿を深く見つめることが、他力への信を開く鍵となります。
つまり、「まず自己を」という言葉は、「まず自己(の限界や可能性、真の姿)を深く知らなければならない」という意味合いをも含んでいるのかもしれません。
現代社会でこの言葉をどう活かすか:バランスと謙虚さ
それでは、この「まず自己を救わなければならない」という(多義的な)言葉を、現代社会を生きる私たちはどのように受け止め、活かしていくことができるでしょうか。
- 自己ケアの正当な理由として: 他者のために何かをしたい、という気持ちは尊いものですが、それで自分自身が燃え尽きてしまっては元も子もありません。「まず自分を大切にすること」は、決して利己的なことではなく、持続可能な形で他者と関わっていくためにも必要なことだと、前向きに捉えましょう。心身の健康を維持するための休息やケアを、罪悪感なく取り入れることが大切です。
- 内省と自己理解の勧め: 忙しい日常の中でも、少し立ち止まって、自分の心の状態、感情の動き、行動の動機などを静かに見つめる時間を持つことは有益です。自分が何を求め、何に苦しみ、何に喜びを感じるのか。自分の強みだけでなく、弱さや限界も知ることが、より地に足のついた生き方、そして他者との関わり方に繋がります。
- 「救う」ことへの謙虚さ: 「他者を救う」という言葉は、ともすれば傲慢な響きを持つこともあります。自分一人の力で誰かを根本的に「救う」ことは、非常に難しい、あるいは不可能なことかもしれません。私たちは、他者に対してできることに限界があることを自覚し、謙虚な姿勢で、できる範囲でのサポートや寄り添いを心がけることが大切ではないでしょうか。
- 感謝と分かち合いの心: 自分が今ここに生かされていること、様々な恵みを受けていることへの感謝の気持ちを持つこと。そして、その恵みを独り占めするのではなく、他者と分かち合おうとする心を持つこと。浄土真宗の「報恩感謝」の精神にも通じるこの姿勢は、自己と他者を繋ぐ温かい架け橋となります。
- 焦らず、今できることから: 自己の完成も、他者の救済も、焦って達成できるものではありません。理想を高く持つことは大切ですが、同時に、今の自分にできることから、一歩一歩、誠実に取り組んでいく姿勢が重要です。
まとめ:自己と他者、響き合う「救い」の道
「我々が一切衆生を救うためには、まず自己を救わなければならない」—— この言葉は、私たちに「自己」と「他者」、そして「救い」の関係について、深く考えるきっかけを与えてくれます。
その解釈は、立場や文脈によって多様ですが、どの視点にも共通して流れているのは、自己への深い洞察の重要性です。自分自身のあり方、限界、そして可能性を真摯に見つめることから、他者との真の関係性、そしてそれぞれの「救い」への道が開かれていくのではないでしょうか。
自力であれ、他力であれ、「自己を救う」ことと「他者を救う」ことは、決して切り離されたものではなく、互いに響き合い、影響し合う、深い関係性の中にあります。
大切なのは、この言葉を固定的なルールとして捉えるのではなく、自分自身の生き方や、他者との関わり方を見つめ直すための「問い」として受け止めることかもしれません。
あなたにとって、「自己を救う」とはどういうことでしょうか? そして、あなたにとって、「他者を救う」とは、どのような形で可能になるのでしょうか?
この問いを持ち続けることが、私たち一人ひとりの人生を、より深く、意味のあるものにしていくための一歩となることを願っています。























