「自分には、たいした価値がない」
あなたも、ふとそう感じる夜があるのではないでしょうか。人と比べて落ちこんだ日。苦手な人に、きつい言葉を返してしまった日。
一切衆生悉有仏性は「いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」と読みます。生きとし生けるものはみな、例外なく仏になる可能性をそなえている、という意味の言葉です。
仏教では、この言葉で命の尊さを見つめてきました。この記事では、読み方と意味、仏性があるのに迷う理由、浄土真宗での受けとめ方を、毎日の場面に置き換えてお伝えします。
一切衆生悉有仏性とはどのような意味か
一切衆生悉有仏性とは、すべての命が、仏になる性質を内にもっているという教えです。
言葉を3つに分けると、意味がつかみやすくなります。
一切衆生悉有仏性の読み方
読みは「いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう」です。
「悉有」を「しつう」と読むところで迷う方が少なくありません。「悉」は「ことごとく」、「有」は「う」と読みます。
2つが続くので「しつう」になるのです。
一切衆生とは、生きとし生けるものすべて
一切衆生(いっさいしゅじょう)は、命あるものすべてを指す言葉です。
「衆生」は、たくさんの命という意味です。人間だけでなく、さまざまな生き物がふくまれます。
そこに「一切」がつくので、ひとりも、一匹も残さないということになります。
仏教では、こうしたすべての命が救いの対象だと考えてきました。くわしくは衆生救済の記事もご覧ください。
悉有仏性とは、ことごとく仏性がある
悉有仏性(しつうぶっしょう)は、「ことごとく仏性が有る」という意味です。
仏性(ぶっしょう)とは、仏になる性質、仏になる可能性のことです。仏とは、もとの言葉で「目覚めた人」を意味するブッダのことです。
つまり一切衆生悉有仏性とは、「どの命の奥にも、目覚めた人になる種がある」という言葉なのです。
出典は『涅槃経』とされる言葉
この言葉は、大乗仏教の経典『涅槃経(ねはんぎょう)』に説かれる教えとして知られています。
性別も、能力も、善い人か悪い人かも問いません。この「例外がない」という点こそ、この言葉のいちばん大切なところです。
今日は、自分のことを「仏になる種をもつ命」とひと言だけ心の中で呼んでみればいいのです。
どの命にも、仏になる種がある。
仏性があるのに、なぜ私たちは苦しみ迷うのか
「仏になる種があるなら、なぜこんなに苦しいのか」
あなたは、そう思うかもしれませんね。とても自然な問いです。
種があっても、芽が出るとはかぎらない。あるとわかっていても、自分では見えない。仏性の教えは、その歯がゆさにも向き合ってきました。
煩悩が仏性をおおっている
仏教では、仏性は煩悩(ぼんのう)におおわれていると考えます。煩悩とは、心を乱し苦しめる欲や怒り、ねたみのことです。
たとえば、雲の厚い日を思い浮かべてみてください。空の上では太陽が照っています。でも、地上からはその光が見えません。
仏性があることと、今すでに仏であることのあいだには、大きなへだたりがあるのです。
凡夫の自覚、自分の力では煩悩を消せない
「それなら、努力して雲を払えばいい」と考える方も多いでしょう。
でも、浄土真宗では、私たちを凡夫(ぼんぶ)と見つめます。凡夫とは、煩悩を抱えたまま生きるしかない、ごく普通の人のことです。
欲も怒りも、気をつけていてもまたわいてきます。自分の力だけで煩悩を消しきることは、とても難しいのです。
浄土真宗では、この難しさをごまかさずに認めます。そのうえで、阿弥陀仏(あみだぶつ)の本願にお任せする道を大切にしてきました。
本願とは、すべての命を必ず救うという阿弥陀仏の願いです。
煩悩を抱えたまま念仏とともに歩む道は、お寺にこもる人だけのものではありません。得藏寺では、今の仕事や暮らしを続けたまま得度でき、剃髪も求めていません。その歩み方は、得度についてのページでご案内しています。
人生を変えるのに修行はいらない
「仏性がある」と聞くと、「だから磨かなければ」と身構える人もいます。
でも、浄土真宗の受けとめ方は違います。立派になってから救われるのではありません。
煩悩だらけの今のままで、阿弥陀仏に願われている命なのです。
できないことは、できないと認めればいいのです。そして、自分ではどうにもならないところは、阿弥陀さまにお任せすればいいのです。
くわしくは他力本願の記事をご覧ください。
自分で磨けない心ごと、お任せすればいい。
仏教の宗派によって仏性の捉え方は違うのか
仏性をどう受けとめるかは、宗派や時代によって説明の仕方に違いがあります。
ここでは細かな論争には立ち入らず、大きな違いと、浄土真宗の受けとめ方を見ていきます。
修行で仏性をあらわすという受けとめ方
仏教には、修行を重ねて心の雲を晴らし、仏性をあらわしていこうとする歩み方があります。
たとえば、座禅を組む。戒めを守って暮らす。そうした積み重ねで、自分の内にある仏性に目覚めていく道です。
この道は尊いものです。でも、毎日の仕事や家族の世話に追われる人にとって、同じ道を歩くのはたやすくないかもしれません。
浄土真宗、阿弥陀仏の本願による救い
親鸞聖人は、自分を煩悩から離れられない凡夫として見つめました。
自分の力で仏性をみがき出し、この世で悟ることはできない。だからこそ、阿弥陀仏の本願のはたらきにすべてを任せる。
浄土真宗は、この受けとめ方を大切にしています。
浄土真宗では、阿弥陀仏の本願によって浄土に生まれ、そこで仏になると受けとめます。仏になる道は、自分の努力ではなく、阿弥陀仏の側から開かれているのです。
善い人だけが救われるのではありません。煩悩の深い人こそ、阿弥陀仏が救おうとする相手です。
この考えは悪人正機の記事でくわしく解説しています。
お任せする心は、「南無阿弥陀仏」の念仏として口からこぼれます。念仏は、仏性をみがくための修行ではありません。
阿弥陀仏に願われていることへの、お礼の声です。
あなたが煩悩に振りまわされた日も、念仏の声はとなえられます。立派な心になってからでなくていいのです。
仏性の教えを「がんばれ」と聞く必要はありません。「この命も見捨てられていない」と聞けばいいのです。
くわしくは浄土思想の記事をご覧ください。
仏になる道は、阿弥陀仏の側から開かれている。
現代社会でこの教えをどう活かすか
「大昔の経典の言葉が、今の暮らしに役立つのだろうか」と感じる方もいるでしょう。
でも、比べられることの多い今だからこそ、この言葉は身近な支えになります。
自分を責めてしまうとき
仕事で失敗したとき。誰かと比べて落ちこんだとき。「自分はだめだ」と決めつけてしまいがちです。
でも、あなたの命の尊さは、成績や評価で決まるものではありません。うまくいった日も、うまくいかなかった日も、同じ命です。
たとえば、会議で言いたいことが言えなかった帰り道。「また同じ失敗をした」と、何度も場面を思い返してしまう。そんな夜は、多くの人にあるものです。
失敗を振り返ることと、自分の命の値打ちを下げることは、別のことです。反省は明日の工夫につながります。
でも、命を否定しても何も生まれません。
自分を責める声が聞こえたら、「この命にも仏になる種がある」と言い直せばいいのです。
人間関係でイライラしたとき
苦手な人や、きつい言葉をぶつけてくる人と向き合うのは、つらいものです。
そんなときは、「この人の奥にも仏性がある。今は煩悩の雲が厚いだけだ」と思い浮かべてみてください。
あなたが我慢を重ねる必要はありません。相手の言動まで認める必要もありません。ただ、相手の命そのものまで否定せずにすみます。
それだけで、怒りの火が少し弱まるはずです。
そして、腹を立てている自分もまた、煩悩を抱えた凡夫です。相手と自分が同じ立場にいると気づくと、責める気持ちがゆるみます。
「ある」ことに目を向ける
多くの人は、幸せや安心を「いつか手に入れるもの」と考えます。
でも、仏性の教えが向けるまなざしは、今すでにあるものです。持っていないものを数えるのではなく、すでにいただいている命に目を向けるのです。
たとえば、朝の一杯のお茶。帰り道に見上げた空。そうした小さなものに気づいたとき、心の向きが少し変わります。
この命は、自分ひとりで用意したものではありません。親から受け継ぎ、たくさんの人や食べ物に支えられて、今日まで続いてきました。
そう思うと、うまくいかない日の自分にも、少しやさしいまなざしを向けられるのではないでしょうか。
今日の終わりに、「今日もこの命があった」とひと言つぶやけばいいのです。
思い通りにならない苦しみについては、四苦八苦の記事もご覧ください。
ない物を数えず、ある命に目を向ける。
一切衆生悉有仏性に関するよくある質問
一切衆生悉有仏性の読み方は?
「いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」と読みます。区切ると「いっさいしゅじょう、しつうぶっしょう」です。
一切衆生とはどういう意味ですか?
生きとし生けるもの、命あるものすべてという意味です。人間だけでなく、さまざまな生き物がふくまれます。
悉有仏性とはどういう意味ですか?
「ことごとく仏性が有る」という意味です。仏性とは、仏になる性質、仏になる可能性のことです。
一切衆生悉皆成仏との違いは?
一切衆生悉皆成仏は「いっさいしゅじょうしっかいじょうぶつ」と読みます。文字どおりには「すべての命が、ことごとくみな仏に成る」となります。悉有仏性が「仏になる種がある」と言うのに対し、悉皆成仏は「みな仏に成る」と言います。
どちらも、例外がないという点では同じです。
浄土真宗では仏性をどう考えますか?
浄土真宗では、私たちを煩悩を抱えた凡夫と見つめます。自分の力で仏性をみがき出すのではなく、阿弥陀仏の本願によって救われる道を大切にしています。
まとめ、一切衆生悉有仏性はすべての命への肯定
一切衆生悉有仏性とは、生きとし生けるものはみな、仏になる可能性をそなえているという意味です。読みは「いっさいしゅじょうしつうぶっしょう」です。
その仏性は、煩悩の雲におおわれています。自分の力だけで雲を払うことは、凡夫の私たちにはとても難しいことです。
浄土真宗では、だからこそ阿弥陀仏の本願にお任せします。煩悩を抱えたままの命が、そのまま願われているのです。
今日、自分を責めたくなったら、「この命にも仏になる種がある」と言葉にしてみてください。それが、この教えを暮らしに活かす最初の一歩です。
参照
・愛葉宣明『人生を変えるのに修行はいらない』白夜書房 https://www.byakuya-shobo.co.jp/book/b10025013.html



















僧侶、著述家、仏陀倶楽部(BuddhaClub)代表
愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校卒業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す
現在は誰でもすぐ「得度」をできる活動を推進中。
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