真なる者は、はなはだもって難く。実なる者は、はなはだもって希なり。

親鸞聖人の言葉

目次

はじめに:「本物」を求める心と、得難い「真実」

私たちは、情報の洪水の中で生きています。インターネットを開けば、真偽不明の情報、加工された美しいイメージ、表面的な言葉が溢れています。人間関係においても、本音と建前、うわべだけの付き合いに疲れ、「本当に信頼できる人」「偽りのない関係」を求める気持ちが強くなることがあります。私たちは、無意識のうちに「本物」や「真実」を渇望しているのかもしれません。

しかし、「本物」や「真実」とは一体何なのでしょうか? そして、それは簡単に見つかるものなのでしょうか?

鎌倉時代に生きた親鸞聖人(1173-1262)は、その主著である『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の中で、中国の高僧・善導大師(ぜんどうだいし)の言葉を引用・解説し、「真(まこと)なる者は、甚(はなは)だ以(もっ)て難(かた)く。実(じつ)なる者は、甚だ以て希(まれ)なり。」と述べています。

「真実のものは、本当に入手しがたく、確かなものは、本当に稀(まれ)である」—— この言葉は、私たちが求める「真実」が、決して容易には得られないものであることを示唆しています。では、親鸞聖人がここで語る「真実」とは、具体的に何を指しているのでしょうか? なぜそれは、これほどまでに「難く」「希」なのでしょうか?

この記事では、この重みのある言葉の出典と文脈を辿りながら、その深い意味を、仏教、特に親鸞聖人が明らかにされた浄土真宗の教えを背景に、丁寧に解き明かしていきます。それは、単に知識を得るだけでなく、私たち自身の心のあり方や、「真実」との向き合い方を見つめ直すきっかけとなるかもしれません。

言葉の出典と文脈:『教行信証』における「真実の信心」

この「真なる者は、はなはだもって難く。実なる者は、はなはだもって希なり。」という言葉は、親鸞聖人の主著であり、浄土真宗の教義体系を確立した『顕浄土真実教行証文類(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)』(通称:教行信証)の「行巻(ぎょうのまき)」の末尾近くに出てきます。

善導大師の言葉の響き

親鸞聖人は、この言葉を記す少し前に、ご自身が深く尊敬し、大きな影響を受けた中国・唐時代の高僧である善導大師(613-681)の言葉を引用しています。善導大師は、その著書『観無量寿経疏(かんむりょうじゅきょうしょ)』(観経疏)の中で、「真実心中、実に希有なり(しんじつしんじゅう、じつにけうなり)」と述べています。これは、「(凡夫の心の中に)真実の心が起こることは、実に稀(まれ)で有(あ)り難(がた)いことだ」という意味です。親鸞聖人の言葉は、この善導大師の言葉の深い意味を受け止め、ご自身の言葉で表現し直したものと考えることができます。

『教行信証』「行巻」末尾の文脈

『教行信証』の「行巻」では、主に阿弥陀仏の本願とその救いの中心となる行、すなわち「南無阿弥陀仏」の名号(みょうごう)とその念仏について詳しく述べられています。そしてその末尾で、親鸞聖人は、阿弥陀仏の救いを受け入れる私たちの側の心のあり方、すなわち「真実の信心(しんじん)」または「信楽(しんぎょう)」について論じています。

この「真実の信心」こそが、浄土に往生するための唯一絶対の要因(正因:しょういん)であると親鸞聖人は強調します。そして、この「真実の信心」がいかに尊く、また、私たち凡夫の力によっては得ることがいかに難しいかを述べた上で、結論的に「ここを以て知る、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なりと。(これによって知るのである、真実の信心を得た人はまことに得難く、真実の信心そのものはまことに稀有なものである、と)」と記しているのです。

「真なる者」「実なる者」が指すもの

したがって、この文脈から明らかなように、「真なる者」「実なる者」とは、

  • 「真実の信心(信楽)を得た人」
  • 「真実の信心(信楽)そのもの」

を指しています。親鸞聖人は、阿弥陀仏から賜る「真実の信心」こそが、この上なく得難く、稀有な宝である、とここで宣言されているのです。

「真実の信心」とは何か? – 他力によって目覚める心

では、親鸞聖人がこれほどまでに「得難く、希なり」と語る「真実の信心」とは、一体どのようなものなのでしょうか?

凡夫の心が生み出すものではない信心

まず理解すべき重要な点は、この「真実の信心」は、私たち凡夫(ぼんぶ)の心の中から自然に湧き上がってくるものではない、ということです。

仏教では、私たち人間は、根本的な無知(無明)と、尽きることのない欲望(貪欲)、怒りや憎しみ(瞋恚)、愚かな考え(愚痴)といった煩悩(ぼんのう)に深く染まった存在であると捉えます。私たちの心は、常に疑いや不安、自己中心的な損得勘定(はからい)に満ちています。

そのような、いわば「汚れた」「偽りの」心から、どうして「真実」で「清浄」な信心が生まれるでしょうか? 親鸞聖人は、凡夫の心から生まれる信心は、たとえそれが篤い信仰心に見えたとしても、どこかに疑いや自己満足(自力のはからい)が混じっており、「真実」とは言えない、と考えました。

阿弥陀仏の「他力」によって与えられる信心

では、真実の信心はどこから来るのか? 親鸞聖人は、それは全く阿弥陀仏の側から私たちに与えられるものである、と断言します。

阿弥陀仏は、「すべての衆生を必ず救い、浄土へ生まれさせる」という大いなる慈悲の本願(本願力、他力:たりき)を建てられました。真実の信心とは、この阿弥陀仏の本願力(他力)が、私たち凡夫の心に届き、働きかけ、目覚めさせてくださるものなのです。それは、私たちの側の努力や能力によるのではなく、完全に仏様からの「賜物(たまもの)」、「恵み」として与えられるものです。これを仏様から私たちへ差し向けられるという意味で「回向(えこう)」と言います。

具体的には、阿弥陀仏の本願の呼び声を聞き、それに対する一切の疑いが晴れ、「ああ、この阿弥陀仏にすべてお任せすれば、必ず救われるのだ」と、心の底から阿弥陀仏の救いをそのまま受け入れる純粋な心、それが「真実の信心」です。親鸞聖人はこれを「一心(いっしん)」とも表現しました。

「信楽(しんぎょう)」という喜びの心

親鸞聖人は、「真実の信心」を表す言葉として、「信楽(しんぎょう)」という言葉を特に大切にされました。「信楽」は、「信じ願う心」であり、「信じ楽しむ心」とも解釈されます。阿弥陀仏の本願の真実を疑いなく信じ、浄土への往生を願うと共に、その救いが定まったことへの広大で言葉では言い表せないほどの喜び(広大難思の慶心)を伴う心、それが信楽です。この喜びもまた、阿弥陀仏から与えられるものなのです。

なぜ「自力」では真実の信心を得られないのか? – 凡夫の限界

親鸞聖人が、真実の信心が「難く」「希」であると強調する理由は、それが私たち凡夫の「自力(じりき)」、つまり自分の力や努力、計らいによっては、決して得ることができない性質のものだからです。なぜ自力では得られないのでしょうか?

凡夫の心に根ざす深い「疑い」

私たちの心には、仏様の教えや救いに対する根本的な「疑い」が根強く存在します。 「本当に仏様なんているのだろうか?」 「阿弥陀仏の浄土なんて、本当にあるのだろうか?」 「こんな罪深く、煩悩まみれの私でも、本当に救われるのだろうか?」 私たちは、自分の目で見えるもの、自分の経験や知識、常識の範囲でしか物事を判断できないため、人知を超えた仏様の働きや本願の力を、素直に信じ受け入れることが非常に難しいのです。この「疑いの心(疑蓋:ぎがい)」が、真実の信心が起こるのを妨げる大きな障壁となります。

「自力のはからい」という信心の妨げ

また、私たちはつい、自分の力で何かを成し遂げよう、自分の努力で救われよう、と考えてしまいます。これを「自力のはからい」と言います。 例えば、「善い行いをたくさん積めば救われるはずだ」「厳しい修行をすれば悟れるはずだ」「念仏を何万回も称えれば功徳があるはずだ」といった考え方です。 一見、熱心な信仰のように見えますが、ここには「自分の力や功績を頼りとする心」があります。 しかし、真実の信心(他力信心)は、そのような自分の力を全く頼りとせず、ただ阿弥陀仏の力(他力)にすべてを任せる心です。したがって、「自力のはからい」は、他力の救いを受け入れることの妨げとなり、真実の信心とは相容れないものとなるのです。自分の計らいを捨てて、仏様に「お任せ」することが、凡夫にとっては非常に難しいのです。

煩悩による心の汚染と不正直さ

さらに、私たちの心は、常に貪欲、怒り、愚痴といった煩悩によって汚染されています。自己中心的な欲望や損得勘定、他者への妬みや怒りなどが渦巻く心で、どうして清らかな「真実」をありのままに受け入れることができるでしょうか。 また、私たちは自分自身に対してさえ、しばしば不正直です。自分の都合の良いように物事を解釈したり、自分の欠点から目をそむけたりします。このような不正直な心もまた、ありのままの真実(仏の救いと、救いを必要とする自己の現実)を受け入れることを困難にします。

これらの「疑い」「自力のはからい」「煩悩による汚染」といった凡夫の性質そのものが、真実の信心を自力で獲得することを「難く」「希」なものにしているのです。

「難く」「希」であることの逆説的な意味:他力への目覚め

では、「真実の信心は得難く、稀である」という言葉は、私たちを絶望させるだけなのでしょうか? 決してそうではありません。この言葉には、むしろ深い救いへと繋がる逆説的な意味が込められています。

だからこそ、この上なく尊い宝である

簡単に手に入るものは、有り難みを感じにくいものです。「真実の信心」が、私たち凡夫の計らいを超えた、阿弥陀仏からの賜物であり、極めて得難く稀なものであるからこそ、ひとたびそれを賜った時の喜びと感謝は計り知れず、この上なく尊い宝である、と感じられるのです。その尊さを知らしめるために、親鸞聖人はあえて「難く」「希」と強調されたとも言えます。

人間の驕りを打ち砕き、謙虚にする

私たちは、自分の知識や能力、努力を過信し、「自分ならできる」「自分は大丈夫だ」と驕(おご)りがちです。しかし、「真実の信心」という究極の価値が、自分の力ではどうにもならない「難く」「希」なものであると知る時、その驕りの心は打ち砕かれます。自分がいかに非力で、煩悩深く、疑い深い存在であるかを、深く知らされるのです。この自己の限界への深い認識(自己への絶望)が、真の謙虚さを生み出します。

他力への目覚めを促す道標

そして、自力によっては真実の信心を得られない、という絶望的な事実に直面して初めて、私たちは「もはや阿弥陀仏の他力に頼るしかない」という心境へと導かれます。自分の力を諦め、すべてを阿弥陀仏にお任せする。その時、阿弥陀仏の側からの働きかけによって、「真実の信心」が私たちの心に恵まれるのです。「難く」「希」であるという言葉は、私たちを自力の迷いから覚醒させ、他力という唯一の救いの道へと目を向けさせるための、重要な道標となっているのです。

現代社会における「真実」とこの言葉:本物を求めて

この親鸞聖人の言葉は、宗教的な信心の問題だけでなく、現代社会で私たちが直面する様々な「真実」探求の場面においても、深い示唆を与えてくれます。

情報社会における「真実」の見極め

フェイクニュースや意図的に操作された情報、SNS上の断片的な言説などが溢れる現代において、何が「真実」なのかを見極めることは非常に困難です。私たちは、安易な情報に飛びついたり、自分の見たいものだけを見たりしがちです。この言葉は、世の中の「真実」とされるものもまた、「難く」「希」であり、常に疑い、吟味し、多角的に探求する姿勢が重要であることを教えてくれます。

人間関係における「真実の繋がり」

うわべだけの付き合いや、利害関係に基づいた繋がりの中で、私たちはしばしば「真実の友情」や「本当の愛情」を求めます。しかし、それらもまた、努力すれば必ず手に入るというものではありません。相手も自分も不完全な人間であり、誤解やすれ違いはつきものです。この言葉は、人間関係における「真実」もまた、簡単には得られない稀有なものであり、だからこそ大切に育むべきものであることを示唆します。また、究極的には、阿弥陀仏との揺るぎない繋がり(信心)の中にこそ、真の安心があることを教えてくれます。

自己理解における「真実の自己」

私たちは、社会的な評価や他者の期待に応えようとしたり、自分の理想像に囚われたりして、なかなか「ありのままの自分」を受け入れることができません。自分の弱さや醜さ、矛盾といった「真実の自己」と向き合うことは、しばしば苦痛を伴います。この言葉は、自分自身の「真実」を知ることもまた、「難く」「希」な道のりであることを示唆します。しかし、その困難な自己探求の先にこそ、自己受容と成長があるのかもしれません。そして浄土真宗の視点からは、その「真実の自己(=煩悩具足の凡夫)」を知ることこそが、阿弥陀仏の救いを受け入れる入り口となるのです。

究極の「真実」への指針

親鸞聖人の言葉が最終的に指し示しているのは、これらの世俗的な「真実」を超えた、究極の「真実」、すなわち阿弥陀仏の本願とその絶対的な救いです。私たちの心がどれほど偽りに満ちていても、阿弥陀仏の本願だけは常に真実であり、決して私たちを見捨てることはない。この揺るぎない「本物」に触れることが、人生のあらゆる不確かさや不安の中で、私たちにとって確かな拠り所となるのです。

浄土真宗の教えから:信心がすべて

この言葉の背景にある浄土真宗の教えのポイントを、改めて確認しておきましょう。

信心為本(しんじんいほん):救いの要は信心にあり

浄土真宗では、浄土に往生するための最も重要な要因(要:かなめ)は、私たちの行う善行や称える念仏の数(行)ではなく、阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく信じる「信心」にある、と考えます。これを「信心為本(しんじんいほん)」と言います。「真なる者は…希なり」の言葉は、この救いの要である信心がいかに得難いものであるかを、改めて強調しているのです。

悪人正機(あくにんしょうき):自覚する者こそが対象

この得難い「真実の信心(他力信心)」は、どのような人に与えられるのでしょうか? 親鸞聖人は、「善人」よりも、むしろ自分自身の力ではどうすることもできない罪深く愚かな存在である(煩悩具足の凡夫=悪人)と深く自覚する者こそが、阿弥陀仏の救いの本来の目当て(正機:しょうき)である、と考えました(悪人正機)。なぜなら、自分の力で「真実」を得られない、救われないと心底知らされた者こそが、他に頼るもののない身として、阿弥陀仏の他力に素直にすがりやすいからです。「真実の信心」の得難しさを知ることは、「悪人」としての自己を見つめることと表裏一体なのです。

聞法(もんぼう):真実を聞き続けること

では、この得難い信心は、どうすれば恵まれるのでしょうか? 浄土真宗では、ただ黙って待っているだけでは信心は起こらないとされます。阿弥陀仏の本願がどのようなものであるか、なぜ私たちが救われるのか、その教え(法)を繰り返し、真剣に聞き求めること(聞法:もんぼう)が非常に重要視されます。教えを聞き続ける中で、阿弥陀仏の働きかけと、聞く者の機縁が熟した時に、他力によって信心が恵まれる、と考えられているのです。

まとめ:得難い「真実」だからこそ、求め続ける

「真なる者は、はなはだもって難く。実なる者は、はなはだもって希なり。」

親鸞聖人が『教行信証』で示されたこの言葉は、阿弥陀仏の他力によってのみ与えられる「真実の信心」がいかに得難く、尊いものであるかを深く私たちに教えてくれます。

それは、疑いや自己中心的な計らいに満ちた私たち凡夫の自力によっては、決して生み出すことのできないものです。だからこそ、「難く」「希」なのです。しかし、その得難しさを知ることは、決して絶望への道ではありません。むしろ、私たちの驕りを砕き、自力の限界を認めさせ、唯一の救いの道である阿弥陀仏の他力へと、私たちの目を向けさせるための、重要な導きとなります。

情報が氾濫し、何が「本物」で何が「真実」かが見えにくい現代社会において、この言葉は、私たちに深い問いを投げかけます。表面的なものに惑わされず、安易な答えに飛びつかず、粘り強く「真実」を探求し続けること。そして、究極的には、人知を超えた仏の「真実(本願の救い)」に耳を傾け、それに身を委ねること。その先にこそ、揺るぎない安心と、人生を貫く確かな拠り所が見出されるのではないでしょうか。

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