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はじめに:人生の悲しみと、ふと感じる孤独
生きていれば、私たちは様々な「悲しみ」に出会います。大切な人との別れ(死別、離別)、病気や老いによる心身の衰え、人間関係の亀裂、夢や目標の挫折、思い通りにならない現実への失望…。喜びや楽しみがある一方で、悲しみや苦しみもまた、人生から切り離すことのできない一部です。
そして、深い悲しみに襲われた時、私たちはしばしば強い「孤独感」に苛まれます。「この悲しみは誰にも分かってもらえない」「世界でたった一人、自分だけがこんなに苦しんでいるのではないか」。周りに人がいても、心が通じ合わないと感じる時、孤独は一層深まります。
そんな、悲しみの淵に沈み、孤独に打ち震える心に、そっと寄り添うように響いてくる言葉があります。鎌倉時代に浄土真宗を開かれた親鸞聖人の精神を伝えるものとして、語り継がれてきたとされる言葉です。
「一人いて悲しい時は二人いると思え。二人いて悲しい時は三人いると思え。その一人は親鸞なり」
一人で悲しんでいる時も、あなたは決して独りではない。誰かと二人で悲しみを分かち合っている時でさえ、そこにはさらに見守る存在がいる。そして、その「共にいる」存在の一人は、他ならぬ親鸞なのだ、と。
この言葉は、一体何を私たちに伝えようとしているのでしょうか? 悲しみのただ中に「二人いる」「三人いる」とは、どういう意味なのでしょうか? そして、なぜそこに「親鸞」が登場するのでしょうか?
(※この言葉の正確な出典について: この言葉は、親鸞聖人ご自身が書き残された著作や、信頼性の高い伝記の中に直接見出されるものではありません。特に「悲しい時」という形は、有名な「一人居て喜ばば二人と思うべし…」(『歎異抄』後序に類似の話が見られる)に比べて、後世に親鸞聖人の深い慈悲や同朋精神を表現するために語られるようになった可能性が高いと考えられます。しかし、出典の有無に関わらず、この言葉が多くの人々の心を打ち、親鸞聖人の教えの本質に触れるものとして大切にされてきたことも事実です。この記事では、この言葉を親鸞聖人の確実な言説としてではなく、聖人の精神や浄土真宗の教えを深く示唆するものとして受け止め、その意味を探っていきます。)
この記事を通して、人生における悲しみとの向き合い方、そして、孤独を感じる心に差し込む温かい光について、共に考えていきましょう。
人生における「悲しみ」と仏教の眼差し:苦しみを見つめることから
まず、仏教が「悲しみ」や「苦しみ」をどのように捉えているかを見てみましょう。
避けられない人生の苦(ドゥッカ)
仏教の出発点は、私たちの人生が本質的に「苦(ドゥッカ)」であるという現実を直視することにあります。「苦」とは、単なる肉体的な痛みだけでなく、「思い通りにならないこと」「変化していくこと」全般を指します。
お釈迦様は、具体的な苦しみとして「四苦八苦(しくはっく)」を説かれました。
- 四苦:
- 生苦(しょうく): 生まれること、生きること自体の苦しみ。
- 老苦(ろうく): 老いていくことの苦しみ。
- 病苦(びょうく): 病気になることの苦しみ。
- 死苦(しく): 死んでいくこと、死への恐怖。
- 八苦(四苦に以下を加えたもの):
- 愛別離苦(あいべつりく): 愛する人や大切なものと別れる苦しみ。
- 怨憎会苦(おんぞうえく): 怨み憎む相手と会わなければならない苦しみ。
- 求不得苦(ぐふとくく): 求めているものが得られない苦しみ。
- 五蘊盛苦(ごうんじょうく): 私たちを構成する心身(五蘊)が思うようにならず、執着を生むことからくる苦しみ。
これらの苦しみ、特に「愛別離苦」や「求不得苦」は、私たちが日常的に感じる「悲しみ」と深く結びついています。仏教は、これらの悲しみや苦しみを「あってはならないもの」として否定したり、無理に忘れさせようとしたりするのではなく、まず「それが人生の現実なのだ」と静かに受け止めることから始めるのです。
悲しみの根源にあるもの:執着と無常
では、なぜ私たちは悲しみを感じるのでしょうか? 仏教はその原因を、私たちの「執着(しゅうちゃく)」の心にあると見抜きます。
- 「私のもの」への執着: 大切な人、財産、地位、健康など、「これは私のものだ」「ずっとこのままであってほしい」と強く執着する心。
- 変化(無常)への抵抗: しかし、仏教の真理が示すように、この世のすべてのものは常に変化し(諸行無常)、永遠に同じ状態に留まることはありません。愛する人もいつかは別れ、財産や地位も失われ、健康もいつかは損なわれます。
- 執着と無常の衝突: この「変化してほしくない」という執着の心と、「必ず変化する」という世界の現実(無常)が衝突する時、私たちは深い悲しみや苦しみを感じるのです。
悲しみそのものが悪いわけではありません。しかし、その悲しみに囚われ、現実を受け入れられずに苦しみ続けるのは、多くの場合、私たちの執着心が原因となっているのです。
言葉の意味を紐解く:「共にいる」という感覚
このような人生の悲しみ、そしてそれが生み出す孤独感に対して、「一人いて悲しい時は二人いると思え…」の言葉は、どのような希望の光を投げかけるのでしょうか? 言葉を一つ一つ丁寧に見ていきましょう。
「一人いて悲しい時は二人いると思え」 – 悲しみに寄り添うまなざし
- 「二人目」の存在: 一人で深い悲しみに沈んでいる時、決してあなたは独りではない、そこには「二人目」がいるのだと思いなさい、とこの言葉は語りかけます。この「二人目」とは、まず第一に、阿弥陀仏(あみだぶつ)であると考えることができます。
- 阿弥陀仏の限りない慈悲: 浄土真宗で最も尊ばれる阿弥陀仏は、すべての生きとし生けるものを、その善悪や状態に関わらず、必ず救い取ろうと誓われた仏様です。その慈悲の光は、私たちが喜びの中にいる時だけでなく、むしろ悲しみや苦しみの淵に沈んでいる時にこそ、より深く、温かく注がれるとされます。阿弥陀仏は、私たちの悲しみをただ見ているだけでなく、その苦悩を我がことのように受け止め、常に共にいてくださる(摂取不捨:せっしゅふしゃ)存在なのです。
- 悲しみを消すのではなく、共にいる: 阿弥陀仏の寄り添いは、必ずしも悲しみをすぐに消し去ってくれるものではないかもしれません。しかし、自分の深い悲しみを、ただ 黙って受け止め、見守り、決して見捨てずに共にいてくれる存在がいる、と感じられること。それは、孤独の中で凍てついた心にとって、どれほどの慰めと力になるでしょうか。
「二人いて悲しい時は三人いると思え」 – 分かち合う悲しみと共感の輪
- 「三人目」の存在: 誰か(友人、家族、仲間など)と二人で悲しみを分かち合っている。そんな時でさえ、そこには目に見えない「三人目」がいるのだと思いなさい、と続きます。この「三人目」もまた、阿弥陀仏であると考えられます。
- 共感の場に注がれる仏の光: 人と人が悲しみや苦しみを共有し、互いに寄り添い、共感し合う。その尊い営みの中にも、阿弥陀仏の慈悲の光は注がれています。人間の共感だけでは届かない深い部分まで、仏様は見守り、支えてくださっている。そのように感じられることで、分かち合う悲しみは、単なる傷の舐め合いではなく、より深く、温かいものへと昇華していくのかもしれません。
「その一人は親鸞なり」 – 先達であり、同朋である親鸞聖人
そして、この言葉の最も特徴的な部分が、「その一人は親鸞なり」という結びです。なぜここで、阿弥陀仏だけでなく、「親鸞」という具体的な人物の名前が挙げられるのでしょうか?
- 苦悩を共にした先達: 親鸞聖人(1173-1262)は、決して超人的な聖者として崇められるだけでなく、私たちと同じように、人生において多くの苦難や悲しみ、そして煩悩に悩みながら生きた一人の人間として、非常に親しく感じられています。9歳での出家、比叡山での20年の修行と挫折、師である法然上人との出会い、そして専修念仏の弾圧による越後への流罪、家族との別離や意見の相違など、その生涯は決して平坦なものではありませんでした。
- 凡夫の立場からの共感: だからこそ、親鸞聖人は、机上の空論ではなく、私たち凡夫が抱える悲しみや苦しみ、弱さ、愚かさを、誰よりも深く理解し、共感してくださる存在として、後世の人々に受け止められてきました。「悲しい時、その一人(共にいる存在)は親鸞なり」という言葉は、「私もあなたと同じように悲しみを知っている凡夫ですよ」「あなたの悲しみはよく分かりますよ」という、親鸞聖人からの温かいメッセージとして響いてくるのです。
- 同朋(どうぼう)・同行(どうぎょう)としての繋がり: 阿弥陀仏が私たちを上から照らす「垂直的」な救いの存在だとすれば、親鸞聖人は、同じ道を歩む仲間(同朋・同行)として、私たちの横に立ち、手を携え、共に歩んでくれる「水平的」な存在と言えるかもしれません。阿弥陀仏の慈悲という究極の救いと共に、同じ人間としての共感と連帯感が、私たちを支えてくれる。この言葉は、その二つの繋がりの大切さを示唆しています。
- 仏の慈悲を伝える存在: また、親鸞聖人は、私たち凡夫に阿弥陀仏の限りない慈悲を指し示し、念仏の道を明らかにしてくださった方です。そういう意味では、親鸞聖人が共にいてくださると感じることは、間接的に阿弥陀仏の慈悲に触れることでもあるのです。

悲しみの中で「共にいる」ということの意味:孤独からの解放
では、悲しみの時に「誰かが共にいる」と感じられることは、私たちの心にどのような変化をもたらすのでしょうか?
孤独感の克服:あなたは独りではない
最も大きな意味は、孤独感からの解放でしょう。悲しみは、しばしば私たちを社会や他者から孤立させ、「自分は一人ぼっちだ」という感覚に陥らせます。しかし、「阿弥陀仏が、そして親鸞が(あるいは同じ道を歩む仲間が)共にいてくれる」と感じられる時、その深い孤独感は和らぎます。物理的には一人であっても、精神的には決して独りではない。見守られ、理解され、受け入れられているという感覚は、暗闇の中の灯火のように、心を温めてくれます。
悲しみを受け入れる力:否定せず、向き合う
「共にいる」存在は、必ずしも悲しみを即座に消し去ってくれるわけではありません。しかし、その存在を感じることで、私たちは悲しみを無理に否定したり、見ないふりをしたりするのではなく、それと向き合い、静かに受け入れていくための力を与えられます。悲しみを押さえつけるのではなく、それを抱えたまま、それでも生きていける。悲しみの質そのものが、絶望から、どこか温かみを帯びたものへと変わっていく可能性を秘めています。
共感と連帯の温かさ:繋がりの中で
「その一人は親鸞なり」という言葉は、特に共感と連帯の重要性を示唆します。自分と同じように悩み、苦しんだ先人がいること。そして、今この時も、同じように悲しみを抱えながら念仏の道を歩んでいる仲間(同朋)がいること。その繋がりを感じる時、私たちの悲しみは個人的なものに留まらず、より大きな文脈の中に位置づけられます。それは、悲しみを乗り越えるための、静かで力強い支えとなるでしょう。悲しみという体験を通して、他者への深い共感が育まれ、新たな繋がりが生まれることさえあります。
現代社会の「悲しみ」とこの言葉:心のセーフティネット
現代社会は、豊かで便利になった一方で、新たな形の悲しみや孤独を生み出している側面もあります。
- 多様化・複雑化する悲しみ: かつてのような分かりやすい喪失体験だけでなく、SNSでの人間関係の疲れ、将来への漠然とした不安、社会的な孤立、自己肯定感の低さからくる悲しみなど、その形は多様化・複雑化しています。
- 「弱さ」を見せにくい空気: 常にポジティブであることが求められたり、「自己責任」が強調されたりする社会では、自分の悲しみや弱さを素直に表現することが難しく、一人で抱え込んでしまう傾向があります。
- この言葉が提供する「心の居場所」: このような現代において、「一人いて悲しい時は…」の言葉が示すメッセージは、より一層重要性を増しています。誰にも打ち明けられない悲しみ、理解されないと感じる苦悩を、静かに受け止め、ただ「共にいてくれる」存在がいるという感覚。それは、疲弊した心にとって、かけがえのない「安全基地(セーフティネット)」となりうるのではないでしょうか。
- 「弱さ」の肯定と受容: 特に、親鸞聖人自身が「凡夫」としての弱さを認め、それでも阿弥陀仏に救われる道を歩んだという事実は、私たちが自分自身の弱さや悲しみを否定せず、そのまま受け入れることを後押ししてくれます。「強くならなければならない」というプレッシャーから解放され、「弱いまま、悲しみを抱えたままでも、生きていていいのだ」という許可を与えてくれるのです。
浄土真宗の教えから:悲しみのただ中にある救い
この言葉の背景にある浄土真宗の教えを、もう少し詳しく見てみましょう。
阿弥陀仏の「摂取不捨」の慈悲
浄土真宗の中心には、阿弥陀仏の限りない慈悲があります。その慈悲は「摂取不捨(せっしゅふしゃ)」という言葉で表現されます。これは、阿弥陀仏が、どのような人間(善人であろうと悪人であろうと、喜びの中にいようと悲しみの底にいようと)をも、一人残らずその光明の中に摂(おさ)め取り、決して見捨てることがない、という誓いを意味します。
特に、私たちが深い悲しみや苦しみの中にあり、自分の無力さを痛感する時こそ、阿弥陀仏の慈悲はより身近に、より力強く感じられる、と浄土真宗では考えます。悲しみの闇が深いほど、仏の光はより明るく輝くのです。
同朋・同行(どうぼう・どうぎょう)という仲間
浄土真宗では、同じ阿弥陀仏の救いを信じ、共に念仏の道を歩む人々を「同朋(どうぼう)・同行(どうぎょう)」と呼び、その水平的な繋がりを非常に大切にします。身分や性別、能力に関係なく、皆が阿弥陀仏の前では平等であり、互いに支え合い、励まし合う仲間です。
「その一人は親鸞なり」という言葉は、親鸞聖人が私たちにとって最高の同朋・同行であることを示すと同時に、今を生きる私たち同士もまた、互いの悲しみに寄り添い合う同朋・同行であるべきだ、というメッセージをも含んでいると受け取れます。悲しみの中で孤立するのではなく、仲間との繋がりの中に身を置くことの大切さを示唆しています。
悲しみの中で称える「南無阿弥陀仏」
浄土真宗では、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と声に出して称える念仏(ねんぶつ)を最も大切な行いとします。悲しみのどん底で、すがるように称える念仏は、単なる気休めではありません。それは、
- 阿弥陀仏への助けを求める呼びかけ(帰依)。
- 同時に、阿弥陀仏からの「必ず救う、私に任せなさい」という呼び声(本願招喚の勅命)を、そのまま受け入れる応答。
念仏を称える時、私たちは声を通して、阿弥陀佛や、同じく念仏を称えて生きた親鸞聖人、そして多くの同朋たちと、時空を超えて繋がることができる、と感じられるのです。
悲しみは消えない、けれど…
ここで注意したいのは、浄土真宗の教えは、必ずしも「信心を持てば、現世での悲しみや苦しみがすべて消え去る」と約束するものではない、ということです。私たちは煩悩を抱えた凡夫である限り、この世で生きる中で様々な悲しみや苦しみに遭遇します。
しかし、たとえ悲しみが消えなくても、阿弥陀仏の救いがすでに定まっている(往生が定まっている)という絶対的な安心感(信心)があれば、その悲しみに押し潰され、人生に絶望してしまうことはありません。悲しみや苦しみを抱えたまま、それでもなお、力強く人生を歩んでいく道が開かれるのです。悲しみの意味合いそのものが、絶望から、仏の慈悲に触れる機縁へと転換される可能性を秘めているのです。
まとめ:心の灯火となる言葉
「一人いて悲しい時は二人いると思え。二人いて悲しい時は三人いると思え。その一人は親鸞なり」
この言葉は、出典が定かではないとしても、人生の避けられない悲しみと、それに伴う深い孤独感に苦しむ私たちにとって、計り知れないほどの慰めと希望を与えてくれる、温かいメッセージです。
それは、私たちがどんなに深い悲しみの淵に沈んでいても、決して独りではないことを教えてくれます。すべてを見通し、私たちの苦悩を我がこととして受け止め、常に見守ってくださる阿弥陀仏という存在。そして、私たちと同じ凡夫として苦悩を経験し、それでも念仏の道を歩み通した先達であり、最大の同朋・同行である親鸞聖人という存在。
この垂直的(仏との)な繋がりと水平的(同朋との)な繋がりを感じる時、私たちの孤独は和らぎ、悲しみを受け入れ、それでも前を向いて生きていくための力が、内側から静かに湧き上がってくるのではないでしょうか。
もしあなたが今、悲しみの中にいるのなら、この言葉をそっと思い出してみてください。目には見えなくとも、あなたのすぐそばに、温かいまなざしを向け、静かに寄り添ってくれている存在がいることを。その確信が、あなたの心を照らす小さな灯火となることを願っています。