親鸞聖人のお言葉「一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし」

一緒に喜びを 共有することの価値

一人で楽しいと感じたら、他の人とその喜びを共有したくなる。
二人で楽しいと感じたら、さらにもう一人を加えて、その喜びを増やしたくなる

*喜びや楽しみは一人で持つよりも、他の人と共有することで増幅されるという考え

はじめに:喜びと孤独、そして「共にいる」ということ

私たちは人生の中で、様々な「喜び」を感じます。目標を達成した時の達成感、美しい景色を見た時の感動、誰かに親切にされた時の温かい気持ち、美味しいものを食べた時の満足感。喜びは、私たちの人生を彩り、生きる活力を与えてくれる、かけがえのない感情です。

そして、多くの場合、私たちはその喜びを誰かと分かち合いたい、と思います。嬉しいことがあった時、思わず誰かに話したくなるのは、ごく自然な心の動きでしょう。喜びは、分かち合うことで、さらに大きく、温かいものになるように感じられます

一方で、私たちは時に深い「孤独」を感じることもあります。物理的に一人でいる時だけでなく、大勢の中にいても、誰にも理解されていない、受け入れられていないと感じる時、心は孤立してしまいます。そんな時、喜びを感じることさえ難しくなってしまうかもしれません。

今回取り上げるのは、鎌倉時代に浄土真宗を開かれた親鸞聖人の、一見すると少し不思議な、しかし、私たちの孤独感に深く寄り添い、温かい光を投げかけてくれる言葉です。

「一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし。その三人とは親鸞なり。」 (※最後の「その三人とは親鸞なり」の部分は、文脈によっては親鸞聖人ご自身が三人目として加わる、つまり阿弥陀仏・相手・親鸞、あるいは阿弥陀仏・親鸞、という解釈もありますが、ここではより一般的に、一人目の「二人目」、二人目の「三人目」を阿弥陀仏として解説を進めます。)

一人で喜んでいても、それは決して一人ではない。二人で喜んでいても、そこには見えない誰かが共にいる。この言葉は、一体何を意味しているのでしょうか?そして、現代を生きる私たちに、どのようなメッセージを伝えているのでしょうか?

この記事では、この親鸞聖人の言葉の背景を探り、その深い意味を丁寧に紐解きながら、孤独を感じやすい現代社会において、この言葉がどのように私たちの心を支え、喜びをより豊かなものにしてくれるのかを考察していきます。

言葉の響く場所:流罪の地での念仏の喜び

この印象的な言葉は、親鸞聖人の言行録として知られる『歎異抄(たんにしょう)』の後序に記されているエピソードの中で語られたものとされています。(ただし、これは『歎異抄』の著者とされる唯円が、親鸞聖人から直接聞いた話として記しているものであり、親鸞聖人自身の著作に直接あるわけではありませんが、聖人の思想を伝える重要な言葉として受け止められています。)

その背景には、親鸞聖人が体験した厳しい現実がありました。

  • 流罪という試練: 親鸞聖人は、師である法然上人と共に、専修念仏(ひたすら念仏を称えること)の教えを広めたことで、旧仏教勢力からの弾圧を受け、越後(現在の新潟県)へ流罪となりました(承元の法難、1207年)。当時、都から遠く離れた辺境の地への流罪は、社会的な死刑にも等しい重い処罰でした。
  • 辺境の地での生活: 親鸞聖人は、慣れない土地で、厳しい自然環境や物資の不足、そして何よりも、師や仲間たちと引き離された孤独の中で、数年間を過ごさなければなりませんでした。
  • そのような状況下での「喜び」: しかし、伝えられるところによれば、親鸞聖人はそのような逆境の中にあっても、絶望することなく、むしろ阿弥陀仏の救いを深く信じ、念仏を称えることに喜びを見出していました。この言葉は、まさにその流罪先での生活の中で、念仏の仲間(同朋・同行)と語り合った際に、その念仏の喜びについて述べられたものとされています。

想像してみてください。厳しい流罪の身でありながら、「喜ばば」と語る親鸞聖人の姿を。それは、単なる世俗的な成功や快楽による喜びではありません。阿弥陀仏という絶対的な存在への信頼に根ざした、深く、静かで、揺るぎない喜び、「法悦(ほうえつ)」とも呼ばれる境地がそこにはあったのではないでしょうか。この言葉は、そのような深い信仰体験の中から生まれてきたものなのです。

なぜ、特に「喜び」の場面でこの言葉が語られるのか。それは、喜びという感情が、ともすれば自己満足に陥りがちな側面を持つからかもしれません。あるいは、深い喜びであればあるほど、それを誰かと共有したい、この喜びは自分だけの力で得たものではない、と感じるからかもしれません。親鸞聖人は、その喜びの根源に、常に阿弥陀仏の存在を感じていたのです。

言葉の深層を探る:見えない「二人目」「三人目」の存在

では、この言葉の具体的な意味を、さらに深く掘り下げていきましょう。

「一人居て喜ばば二人と思うべし」 – 孤独の中の同伴者

  • 文字通りの解釈: まず文字通りに読めば、「もしあなたが一人でいて何か喜びを感じたならば、そこには自分と、もう一人、合わせて二人がいるのだと思いなさい」となります。
  • 「二人目」は誰か?: この「もう一人」、すなわち「二人目」とは、阿弥陀仏であると解釈するのが、浄土真宗の教えにおける一般的な理解です。阿弥陀仏は、遠い西方極楽浄土におられるだけでなく、常に私たち一人ひとりのそばにいて、見守り、照らし、救い取ろうと働きかけてくださっている存在常照我:じょうしょうが摂取不捨:せっしゅふしゃ)とされます。「摂取不捨」とは、阿弥陀仏の慈悲の光の中に摂め取られた者は、決して見捨てられることがない、という意味です。
  • 孤独と繋がりの対比: 私たちは、物理的に一人でいると、しばしば孤独を感じます。しかし、親鸞聖人は、たとえ物理的には一人であっても、阿弥陀仏が常に共にいてくださるならば、それは決して本当の孤独ではない、と言っているのです。目には見えなくても、聞こえなくても、常に寄り添い、喜びを共に分かち合ってくださる存在がいる。この感覚は、深い安心感と心の支えをもたらします。
  • 喜びの源泉: さらに言えば、その「喜び」自体が、そもそも阿弥陀仏から与えられたものである、という視点も含まれています。念仏を称える喜び(法悦)は、私たち凡夫が自力で生み出すものではなく、阿弥陀仏の慈悲の働きかけによって、私たちの心に恵まれるものなのです。だから、一人で喜んでいるように見えても、その喜びの根源には阿弥陀仏がおられ、共に喜んでくださっている、と感じられるのです。

「二人居て喜ばば三人と思うべし」 – 共有される喜びの輪

  • 文字通りの解釈: 次に後半、「もしあなたが誰かもう一人と、二人でいて何か喜びを感じたならば、そこには自分たち二人と、さらにもう一人、合わせて三人がいるのだと思いなさい」となります。
  • 「三人目」も阿弥陀仏: この「三人目」もまた、阿弥陀仏であると解釈されます。阿弥陀仏は、個々人と一対一で向き合ってくださるだけでなく、人と人との繋がり、特に同じ信仰を持つ仲間(同朋・同行)が喜びを分かち合う、その輪の中にも、共におられるのです。
  • 同朋・同行の精神: 浄土真宗では、同じ阿弥陀仏の救いを信じ、共に念仏の道を歩む人々を「同朋(どうぼう)」「同行(どうぎょう)」と呼び、その水平的な繋がりを大切にします。この言葉は、同朋と共に喜びを分かち合う時、その喜びは単に人間同士のものではなく、阿弥陀仏もまた、その喜びの輪に加わり、共に喜んでくださっているのだ、という温かい世界観を示しています。
  • 喜びの広がり: 一人で感じる喜びも、二人で分かち合う喜びも、個人的な体験に留まるのではなく、常に阿弥陀仏という絶対的な存在と共有されている。この感覚は、私たちの喜びを、より深く、広く、普遍的なものへと高めてくれるでしょう。それは、自己中心的な喜びではなく、より大きな慈悲の光に照らされた、感謝の念を伴う喜びへと変化していく可能性を示唆しています。

なぜ「思うべし」なのか? – 信じることで開かれる世界

この言葉の結びが「~と思うべし」となっている点も重要です。これは、単に「そう想像しなさい」「そう思い込みなさい」という意味ではありません。

  • 信心の眼差し: これは、阿弥陀仏の救いを深く信じる「信心(しんじん)」の眼差しを通して見た、世界の真実のあり方を示していると言えます。目に見える現実だけが全てではない。信心が開かれる時、これまで見えなかった阿弥陀仏の働きかけや、常に共にいてくださるという事実が、リアリティをもって感じられるようになるのです。
  • 受け入れる姿勢: 「思うべし」という言葉には、阿弥陀仏が常に共にいてくださるという真実を、素直に受け入れなさい、その慈悲の中に安心しなさい、という促しが込められています。疑いや不安を手放し、阿弥陀仏の働きかけに身を委ねる姿勢が、この言葉を真に体験するための鍵となります。

「仏凡一体」という境地:隔てなき慈悲の温もり

親鸞聖人のこの言葉は、仏教、特に浄土真宗における「仏凡一体(ぶつぼんいったい)」という重要な概念を、非常に分かりやすく、情感豊かに表現していると言えます。

  • 仏と凡夫が一つに: 「仏凡一体」とは、文字通り、仏(ここでは主に阿弥陀仏)と凡夫(煩悩を抱えた私たち)が、隔てなく一つになっている、という状態や感覚を指します。通常、仏と凡夫の間には、悟りの有無という点で大きな隔たりがあると考えられます。しかし、阿弥陀仏の限りない慈悲は、その隔たりを超えて私たち凡夫を包み込み、決して見捨てることなく、常に共にいてくださるのです。
  • 絶対的な安心感: この「仏凡一体」の感覚は、私たちに絶対的な安心感を与えてくれます。どんなに自分が至らなくても、どんなに罪深いと感じても、阿弥陀仏は決して離れることなく、この私をそのまま受け入れ、救い取ってくださる。この確信があるからこそ、親鸞聖人は流罪という逆境にあっても、深い喜びを感じることができたのでしょう。
  • 他宗教との比較: 様々な宗教や思想において、「神との一体感」や「宇宙との一体感」といった概念が見られます。それらと「仏凡一体」との間には、人間を超えた大いなる存在との繋がりを実感するという点で共通性が見られるかもしれません。しかし、浄土真宗における「仏凡一体」は、あくまでも阿弥陀仏の側からの働きかけ(他力)によって成り立ち、凡夫が凡夫のままで(煩悩を抱えたままで)、仏の慈悲に包まれるという点に特徴があります。自己の力で一体化を目指すのではなく、仏の慈悲にただ委ねる中で恵まれる境地なのです。

現代における「孤独」とこの言葉の意義

さて、この親鸞聖人の言葉は、現代社会に生きる私たちにとって、どのような意味を持つのでしょうか。特に、現代社会が抱える「孤独」の問題と照らし合わせて考えてみましょう。

現代社会の孤独感という病

現代は、かつてないほど「繋がっている」時代だと言われます。インターネットやSNSを通じて、世界中の人々と瞬時にコミュニケーションを取ることができます。しかし、その一方で、「孤独感」を訴える人はむしろ増えているとも言われます。

  • 表層的な繋がり: SNS上での「いいね」やフォロワー数は、必ずしも深い心の繋がりを保証するものではありません。むしろ、他者の華やかな投稿を見て、自分だけが取り残されているような感覚(SNS疲れ、FOMO: Fear Of Missing Out)を抱くこともあります。
  • 物理的な孤立: 核家族化や未婚率の上昇、都市部への人口集中による地域コミュニティの希薄化などにより、頼れる人が身近にいない、物理的に孤立した状況に置かれる人が増えています。
  • 自己責任論の圧力: 社会全体に「何事も自己責任」という風潮が強まると、困難な状況に陥った人が助けを求めにくくなり、一人で問題を抱え込み、孤立を深めてしまうことがあります。
  • パンデミックの影響: 近年の新型コロナウイルス感染症のパンデミックは、外出自粛やリモートワークの普及により、人との直接的な接触機会を減少させ、多くの人々の孤独・孤立の問題をさらに深刻化させました。

このような現代社会の状況において、親鸞聖人の「一人居て喜ばば二人と…」の言葉は、私たちに温かい慰めと希望を与えてくれます。

この言葉がもたらす慰めと希望

  • 「独りぼっち」ではないという真実: 物理的に一人で過ごす時間が多い人、あるいは人間関係の中で疎外感を感じている人にとって、この言葉は「あなたは決して独りぼっちではない」という力強いメッセージとなります。目には見えなくとも、常にあなたを見守り、寄り添ってくれる存在(阿弥陀仏)がいる。この感覚は、孤独の闇に差し込む一条の光となりえます。
  • 静かな受容と安心感: 自分の喜びや悲しみを、誰にも打ち明けられず、一人で抱え込んでいると感じる時、この言葉は「あなたの喜びを静かに受け止め、共感し、見守ってくれる存在がいる」という安心感を与えてくれます。評価されたり、比較されたりすることのない、無条件の受容がそこにはあります。
  • 普遍的な繋がりの示唆: 人間関係におけるすれ違いや対立によって孤独を感じる時にも、この言葉はより大きな視点を与えてくれます。人と人との関係を超えた、阿弥陀仏という普遍的な存在との繋がりを意識することで、対人関係の悩みから少し距離を置き、心を落ち着けることができるかもしれません。

「喜び」を再発見する視点

この言葉はまた、私たちが日常の中で「喜び」をどのように捉え、感じるかについても、新たな視点を与えてくれます。

  • 日常の小さな喜びの意味: 特別な出来事だけでなく、日常の中にあるささやかな喜び(例えば、美味しいコーヒーを一杯飲んだ時、窓から差し込む日差しが暖かい時など)の中にも、阿弥陀仏が共にいてくださる、と感じてみること。それは、当たり前のように過ぎていく日常を、より感謝に満ちた、かけがえのないものとして捉え直すきっかけになります。
  • 分かち合う喜びの尊さ: 「二人居て喜ばば三人」の言葉は、他者と喜びを分かち合うことの尊さを改めて教えてくれます。その喜びの輪の中に、阿弥陀仏も共におられると感じる時、その共有体験はさらに深く、温かいものになるでしょう。
  • 喜びへの肯定: 時には、自分が喜びを感じることに罪悪感を抱いたり、素直に喜べなかったりすることもあるかもしれません。しかし、この言葉は、私たちの喜びを、阿弥陀仏もまた共に喜んでくださるのだと肯定してくれます。自分の感情を素直に受け入れ、喜びを大切にすることへの後押しとなるでしょう。

浄土真宗の教えから

最後に、この言葉と浄土真宗の教えとの関連を、もう少し整理しておきましょう。

他力信心の現れとして

繰り返しになりますが、この「一人であっても一人ではない」「二人であっても二人ではない」という感覚は、私たちが努力して獲得する境地(自力)ではありません。それは、阿弥陀仏の側からの絶え間ない働きかけ(他力)を、そのまま疑いなく受け入れる心、すなわち「他力信心(たりきしんじん)」が定まった人の心に、自然に現れてくる世界観、恵まれる境地なのです。阿弥陀仏にすべてをお任せしているからこそ、常に共にいてくださるという絶対的な安心感が得られるのです。

念仏の功徳

この言葉が念仏の喜びの中で語られたとされるように、「南無阿弥陀仏」と称える念仏は、阿弥陀仏との繋がりを最も直接的に実感する行いとされます。念仏を称える時、私たちは阿弥陀仏の名を呼び、阿弥陀仏はそれに応えてくださる。その呼びかけと応えの中で、阿弥陀仏が「今、ここ」に共にいてくださることを感じ、喜び(法悦)が恵まれるのです。この言葉は、念仏によって開かれる世界の一端を示していると言えるでしょう。

同朋・同行(どうぼう・どうぎょう)の精神

「二人居て喜ばば三人」という言葉は、浄土真宗が大切にする「同朋・同行」の精神とも深く結びついています。「同朋・同行」とは、同じ阿弥陀仏の救いを信じ、同じ浄土を目指して、この世の旅路を共に歩む仲間を指します。親鸞聖人は、身分や性別、善悪に関わらず、念仏を喜ぶすべての人が同朋・同行であると考えました。同朋と共に念仏し、喜びを分かち合う時、そこには必ず阿弥陀仏もご一緒であり、その繋がり(水平的な繋がり)は、阿弥陀仏との繋がり(垂直的な繋がり)によって支えられ、より確かなものとなるのです。

まとめ:あなたの喜びは、いつも誰かと共にある

親鸞聖人の言葉、「一人居て喜ばば二人と思うべし。二人居て喜ばば三人と思うべし。」

このシンプルでありながら奥深い言葉は、私たちが感じる孤独に寄り添い、それを超えた温かい世界観を示してくれます。それは、目に見える世界だけが全てではなく、常に私たちを見守り、慈しみ、喜びも悲しみも共にしてくださる大きな存在(阿弥陀仏)がおられる、という真実です。

現代社会は、時に私たちを孤立させ、心を冷たくさせることがあります。しかし、この言葉を心の片隅に置いておくことで、ふとした瞬間に、自分が決して独りぼっちではないこと、自分のささやかな喜びでさえも、見守られ、共に喜ばれているのだという安心感に包まれるかもしれません。

一人で静かに喜びを噛みしめる時、そこには阿弥陀仏がおられる。 大切な誰かと喜びを分かち合う時、そこにも阿弥陀仏がおられる。

この言葉を道しるべとして、日々の生活の中で感じる喜びを、より深く、温かく、そして感謝の念をもって味わってみてはいかがでしょうか。あなたの喜びは、決してあなた一人のものではなく、いつも、見えない誰かと共にあるのですから。

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