罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき:親鸞聖人の言葉を解説

親鸞聖人の言葉

目次

はじめに:「罪悪感」と「本当の自分」のはざまで

「また同じ過ちを繰り返してしまった」「自分はなんてダメな人間なんだろう」—— 私たちは、自分の犯した過ちや、心の中に渦巻く醜い感情に気づいた時、深い「罪悪感」に苛まれることがあります。そして、「こんな自分は救われないのではないか」と、自己否定の底に沈んでしまうことさえあります。

一方で、心のどこかでは、「自分は本来、もっと良い人間のはずだ」「清らかな心を持ちたい」と願う気持ちもあるのではないでしょうか。

このような、人間の持つ「罪」の意識、そして「本来の自己」への眼差しについて、深く考えさせてくれる言葉があります。鎌倉時代の僧侶であり、浄土真宗の開祖である親鸞聖人(1173-1262)の思想を伝える言葉として、しばしば語られる一節です。

「罪業(ざいごう)もとよりかたちなし 妄想顛倒(もうぞうてんどう)のなせるなり 心性(しんしょう)もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」

(※この言葉は、親鸞聖人が作られた和讃(わさん)の中の表現や思想を汲んだものと考えられますが、この一連の形での正確な出典は特定が難しい点にご留意ください。この記事では、この言葉が示す深い内容について解説していきます。)

この言葉は、一読すると、いくつかの矛盾する要素を含んでいるように見えます。

  • 「罪には実体がない」と言いながら、それを生み出す「妄想」がある。
  • 「心は本来清らかだ」と言いながら、「真実の人はいない」。

罪はあるのか、ないのか? 私たちの心は清らかなのか、汚れているのか? 真実とは何なのか? この言葉は、私たち自身の存在の根幹に関わる、深い問いを投げかけてきます。

この記事では、この示唆に富んだ言葉を、仏教、特に親鸞聖人の浄土真宗の教えを背景に、丁寧に紐解いていきます。人間の罪と本性、そして「まこと(真実)」とは何かを探る旅に、ご一緒しましょう。

言葉の背景:親鸞和讃の世界観

この言葉の思想的な背景を探るには、親鸞聖人が仏教の教えを民衆に分かりやすく伝えるために作られた、和語(日本語)による歌「和讃(わさん)」の世界に触れることが助けになります。

親鸞和讃:教えを歌にのせて

親鸞聖人は、漢文で書かれた難しい経典や論釈の内容を、七五調の親しみやすい和讃の形にして数多く残されました。『浄土和讃』『高僧和讃』『正像末和讃』などが有名です。これらの和讃には、阿弥陀仏の慈悲や浄土の素晴らしさ、そして私たち凡夫のありのままの姿が、情感豊かに歌われています。

『高僧和讃』源信章との響き合い

今回取り上げる言葉の思想は、特に『高僧和讃』の中で、平安時代の高僧であり『往生要集』の著者である源信(げんしん)和尚を讃える部分に見られる内容と深く響き合っています。

例えば、源信和讃の七首目には、「罪障(ざいしょう)もとよりかたちなし よこしま(邪)なる心をもちてつくるなり」と歌われています。「罪や障(さわ)りには、もともと実体がない。それは、(私たちが)よこしまな心を持つことによって作り出されるのだ」という意味です。これは、提示された言葉の前半部分と非常によく似ています。

また、九首目には、「心性(しんしょう)はもとより清浄(しょうじょう)にて 妄想(もうぞう)の因縁(いんねん)によりてけがる よこしまなる見(けん)をもとどめて 正念(しょうねん)にして仏(ぶつ)を念ぜよ」とあります。「心の本来の性質は清らかであるが、妄想という原因や条件によって汚れてしまうのだ。(だから)よこしまな考えをやめて、正しく仏を念じなさい」という意味です。これもまた、後半部分の「心性もとよりきよけれど」という部分と通じます。

これらの和讃に見られる思想を踏まえながら、言葉の意味をさらに深く探っていきましょう。

前半の解読:「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり」

まず、言葉の前半部分、「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり」について考えてみます。

「罪業もとよりかたちなし」 – 罪の実体は「空(くう)」である

  • 「罪業(ざいごう)」とは?: 「罪」は、仏教の戒律に反する行為や、他者を傷つける行為などを指します。「業(ごう、カルマ)」は、その行為(特に意図を伴うもの)と、それが未来に結果をもたらす力のことです。「罪業」で、罪深い行いとその結果、あるいは罪そのものを意味します。
  • 「もとよりかたちなし」の意味: 「もともと、決まった形(実体)はない」ということです。これは、仏教の根本的な教えである「空(くう)」や「諸法無我(しょほうむが)」の思想に基づいています。すべての物事や現象は、様々な原因と条件(因縁)が寄り集まって一時的に成り立っているだけであり(縁起)、それ自体に固定的な、不変の実体はない、と考えます。 罪や悪業もまた、この法則の例外ではありません。罪という「現象」は確かに存在し、私たちを苦しめます。しかし、罪そのものに、石や机のような確固たる「形」や「実体」があるわけではないのです。それは、特定の状況や関係性の中で、縁起によって生じ、そして縁が尽きれば滅していくものなのです。
  • なぜこれが重要か?: もし罪に実体がないのなら、私たちは罪というレッテルに永遠に縛られ続ける必要はないのかもしれません。罪を犯したという事実は消えなくても、その罪の本質が「空」であると知ることは、過剰な罪悪感や自己否定から解放され、変化や救済への可能性を開く一歩となりえます。

「妄想顛倒のなせるなり」 – 罪を生み出すのは私たちの「心」

では、実体のないはずの「罪」は、一体どこから生まれてくるのでしょうか? 言葉は続けます。「妄想顛倒(もうぞうてんどう)のなせるなり」と。

  • 「妄想(もうぞう)」とは?: 真実ではないことを、あたかも真実であるかのように思い描くこと。根拠のない思い込み、現実からかけ離れた考え、欲望や恐怖が生み出す幻想などを指します。
  • 「顛倒(てんどう)」とは?: 「ひっくり返る」「逆さま」という意味です。仏教では、物事をありのままに正しく見ることができず、真理とは逆さまに捉えてしまうことを指します。代表的なものに四顛倒(してんどう)があります。
    1. 無常を常と見る(常顛倒): 常に変化するものを、永遠不変であると思い込む。
    2. 苦を楽と見る(楽顛倒): 本質的に苦であるものを、楽しみであると思い込む。
    3. 無我を我と見る(我顛倒): 固定的な実体のないものに、「我」や「私のもの」があると執着する。
    4. 不浄を浄と見る(浄顛倒): 不浄なものを、清らかで美しいと思い込む。
  • 罪の原因は心にある: つまり、罪業を生み出す根本的な原因は、外部の何かではなく、私たち自身の心の中にある「妄想」や「顛倒」といった、誤った認識や考え方にある、というのです。真理に対する無知(無明)や、そこから生まれる煩悩(貪欲・怒り・愚痴など)が、私たちに現実を歪んで見させ(妄想・顛倒)、結果として罪深い行為(業)へと駆り立てるのです。

罪悪感との向き合い方へのヒント

この前半部分は、私たちが罪悪感と向き合う上で、重要な視点を与えてくれます。自分が犯した罪の事実は重いものです。しかし、その罪に「実体」はないと知ること。そして、その罪を生み出したのは、自分自身の「妄想」や「顛倒」(つまり、煩悩や無知)であったと気づくこと。それは、罪そのものに押し潰されるのではなく、罪を生み出す自分自身の心のあり方へと、問題の焦点を移すことを可能にします。ただし、だからといって罪悪感が消えるわけではありません。むしろ、罪を生み出す自身の「妄想・顛倒」がいかに根深いものであるかを知らされることになるでしょう。

後半の解読:「心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」

次に、言葉の後半部分、「心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」を見ていきます。ここには、人間の持つ二面性、理想と現実のギャップが示されています。

「心性もとよりきよけれど」 – すべての人に宿る本来の清らかさ(仏性)

  • 「心性(しんしょう)」とは?: 私たちの「心」の「本来の性質」を意味します。
  • 「もとよりきよし」の意味: 仏教、特に大乗仏教では、この心の本来の性質(心性)は、清らかで汚れのないものである、と説かれます。これを「自性清浄心(じしょうしょうじょうしん)」と呼びます。
  • 仏性・如来蔵思想との繋がり: この考え方は、別の記事でも触れた「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)(すべての生きとし生けるものには仏性が備わっている)や「如来蔵(にょらいぞう)」(すべての衆生の中に仏が宿っている)という思想と深く結びついています。私たちは、その存在の最も深い部分においては、誰もが仏と成り得る清らかな可能性、輝くような本性を、本来的に持っているのだ、というのです。これは、人間存在に対する根源的な肯定であり、希望のメッセージと言えます。

「この世はまことのひとぞなき」 – 厳しい現実認識

しかし、言葉はそこで終わりません。続けて、「この世はまことのひとぞなき」と、厳しい現実認識が示されます。

  • 「この世」とは?: 私たちが生きているこの現実世界、迷いの世界(娑婆世界:しゃばせかい)のことです。
  • 「まことのひと」とは?: 「まこと」とは「真実」のこと。「まことのひと」とは、煩悩から完全に解放され、妄想や顛倒に惑わされることなく、真実に目覚め、真実を生きる人。つまり、仏陀(ぶっだ)や悟りを開いた聖者のことを指します。
  • 「ぞ なき」の意味: 「~は、いないのだ」という断定的な表現です。つまり、私たちの心の奥底には清らかな仏性が宿っているかもしれないが、現実のこの迷いの世界においては、煩悩に覆われ、妄想や顛倒から自由になれない私たち凡夫ばかりであり、「まことのひと」(=仏・聖者)など一人も存在しないのだ、というのです。これは、人間存在の限界に対する、非常に厳しい、しかし正直な認識と言えるでしょう。

二重の真実:理想としての「仏性」と、現実としての「凡夫」

この後半部分は、私たち人間が持つ二重の真実を同時に示しています。

  1. 本来性の真実: 私たちの心性は、本来、仏と同じように清らかである(仏性)。
  2. 現実性の真実: しかし、現実の私たちは、煩悩にまみれ、真実を生きていない(凡夫)。

この「理想」と「現実」の間の、埋めがたい大きなギャップ。これこそが、親鸞聖人が生涯を通して見つめ続けた、私たち人間の根本的な問題でした。

この言葉が示す浄土真宗の核心:凡夫の自覚と他力への帰依

この一見矛盾するような言葉は、実は、親鸞聖人が開かれた浄土真宗の教えの核心部分を、見事に言い表しています。

凡夫であることの徹底的な自覚

この言葉が私たちに示すのは、まず、自分自身が「凡夫(ぼんぶ)」であるという事実を、徹底的に自覚することの重要性です。

  • 「罪業にかたちはない」と頭で理解しても、現実に私たちは怒りや貪りに駆られて罪を犯し続けてしまう。
  • 「心性は本来清らかだ」と聞いても、現実の自分の心は煩悩にまみれ、とても清らかとは言えない。
  • そして、この迷いの世には、「まことのひと」はどこにもいない。自分自身もまた、「まこと」からは程遠い存在である。

このように、理想とはかけ離れた、どうしようもなく罪深く、愚かで、「まこと」のない存在。それが「凡夫」であり、他の誰でもない、この「私」自身の真実の姿なのだ、と深く知らされること。これが、浄土真宗における「悪人」の自覚であり、救いへの出発点となります。

自力による解脱・成仏の限界

このような「まことなき凡夫」が、自らの力(自力)で修行し、煩悩を断ち切り、妄想や顛倒をなくし、本来の清らかな心性(仏性)を輝かせ、「まことのひと」(仏)になることなど、到底できるはずがない。親鸞聖人は、比叡山での20年間の厳しい修行体験を通して、この自力による解脱・成仏の道の限界を痛感されました。

他力本願への唯一の道:まことの救いを求めて

だからこそ、道は一つしかない、と親鸞聖人は結論づけます。それは、この「まことなき私」を、そのままの姿で、必ず救うと誓われた阿弥陀仏の「まことの願い(他力本願)」に、ただ身を任せることです。

  • 罪に実体はないけれど、現実に罪を犯してしまう私。
  • 心性は本来清らかだけれど、現実に煩悩まみれの私。
  • この世に「まことのひと」はいないけれど、ただお一人、阿弥陀仏だけが「まことの仏」であり、その本願は「まこと(真実)」である。

この「まことなき私」が、阿弥陀仏の「まことの救い」に出遇う。その唯一の接点が、阿弥陀仏の本願力を疑いなく信じ受け入れる「真実の信心(他力信心)」なのです。

親鸞聖人の言葉

「この世はまことのひとぞなき」という厳しい現実認識は、私たちを絶望させるのではなく、むしろ「だからこそ、阿弥陀佛の真実の救いが必要なのだ」という、他力本願への絶対的な帰依へと導く力となるのです。

罪悪感と救いの関係:「かたちなし」と「まことなし」の間で

では、罪悪感はどうなるのでしょうか? 「罪業もとよりかたちなし」と知ることで、罪悪感から完全に解放されるのでしょうか? そう単純ではありません。罪に実体はないと知っても、妄想・顛倒に満ちた私たちは、現実に罪を犯し、その結果に苦しみます。

浄土真宗の道は、罪悪感を無くそうと努力することではありません。むしろ、「罪にかたちは無い。しかし、その罪を生み出す妄想・顛倒から離れられない、まことなき私である」という事実を深く受け止め、そのような私をこそ目当てとしてくださる阿弥陀仏の慈悲に、ただ頭を下げ、救いをいただく、という道なのです。罪悪感は消えないかもしれません。しかし、その罪悪感に沈み込むのではなく、それがそのまま、仏の慈悲を仰ぐ機縁となるのです。

現代を生きる私たちへのメッセージ:「まこと」を求めて

この親鸞聖人の精神を伝える言葉は、現代を生きる私たちにも、多くの大切なメッセージを投げかけています。

自己受容と他者理解の深化

完璧な人間などどこにもいない。「心性は清らかだけれど、現実は煩悩まみれ」というのが、私たち人間のありのままの姿です。この言葉は、自分自身の不完全さ、弱さ、矛盾を、ありのままに受け入れることを促します。そして、他者に対しても、同様の眼差しを持つことを教えてくれます。過剰な自己肯定や自己否定、他者への過剰な期待や批判から解放され、より穏やかで現実的な自己受容、他者理解へと繋がるでしょう。

「真実」を探求する姿勢

私たちは、目に見える現象(例えば「罪」という結果)にとらわれがちですが、この言葉は、その根源にあるもの(妄想・顛倒という心の働き)に目を向けることの重要性を示唆しています。物事の本質を見極めようと、常に内省し、学び続け、真実を探求していく姿勢は、情報過多で複雑な現代社会を生き抜く上で不可欠です。

「まこと」への渇望に応えるもの

表面的なもの、偽りのものに囲まれ、「まこと(真実)」への渇望を感じている現代人にとって、この言葉は、世俗的な価値観や成功物語とは異なる、究極的な「まこと」の存在を示唆します。それは、人知を超えた、仏の真実(本願)とその救いです。私たちの内なる「まこと」への求めが、最終的に仏教の教え、そして阿弥陀仏の他力の救いへと私たちを導く可能性を秘めているのです。

絶望の中の希望

「この世はまことのひとぞなき」という言葉は、一見すると非常にペシミスティック(悲観的)に聞こえるかもしれません。しかし、浄土真宗の文脈においては、この徹底的な現実認識こそが、かえって、阿弥陀仏の他力という確かな希望の光を、より鮮やかに浮かび上がらせるのです。人間の可能性に絶望したところに、仏の無限の慈悲が開かれてくる。そこに、この教えの持つ逆説的な力強さがあります。

まとめ:矛盾を抱えたまま、真実の光に向かう

親鸞聖人の思想を伝える言葉、

「罪業もとよりかたちなし 妄想顛倒のなせるなり 心性もとよりきよけれど この世はまことのひとぞなき」

これは、人間の存在が持つ深い二面性——罪に実体はないが、妄想によって罪を生み出してしまう現実、心の本性は清らかだが、煩悩によって汚れている現実——を鋭く見抜いた言葉です。

そして、このどうしようもない凡夫の現実認識は、私たちを単なる絶望に突き落とすのではなく、むしろ「だからこそ阿弥陀仏の他力本願が必要なのだ」という、絶対的な救いへの道を開くための、重要なステップとなります。

「まことのひと」がいないこの世だからこそ、阿弥陀仏の「まことの救い」が輝きを増す。この言葉は、罪悪感に苦しみ、自己の不完全さに悩む私たちに、ありのままの自分を受け入れ、それでもなお、大いなる慈悲の光の中に抱かれているのだという、計り知れないほどの安心感を与えてくれるのではないでしょうか。

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