「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」 – 全ての生き物には仏性がある

一切衆生悉有仏性

「自分には価値がない」「あの人はどうしても好きになれない」。 日々の生活の中で、自分の欠点ばかりが目についたり、他者に対して厳しくなってしまったりすることはありませんか?

仏教には、そんな私たちの凍りついた心を溶かし、根底から肯定してくれる「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」という言葉があります。これは、「すべての生きとし生けるものには、例外なく仏になる可能性(仏性)が備わっている」という、希望に満ちた教えです。

この記事では、この言葉が持つ深い意味と、現代を生きる私たちが自己肯定感を育み、他者と穏やかに関わるためのヒントを、浄土真宗の視点や住職の経験を交えて解説します。

一切衆生悉有仏性とはどのような意味ですか?

生きとし生けるものすべてに、例外なく「仏になる本性(可能性)」が備わっているという意味です。性別や能力、善人か悪人かに関わらず、すべての命の奥底には尊い「仏の種」が眠っています。

言葉の成り立ちと意味

この言葉は、以下の3つの要素から成り立っています。

  • 一切衆生(いっさいしゅじょう): 人間だけでなく、動物や虫など、命あるものすべてを指します。仏教では、生きとし生けるものすべてが救済の対象です。
  • 悉(ことごと)く: 「残らず」「例外なく」「すべて」という意味です。誰一人として漏れることはありません。
  • 有仏性(うぶっしょう): 仏(ブッダ=目覚めた人)に成るための性質、あるいは可能性(種)を持っているということです。

誰もが持っている「如来蔵」

大乗仏教では、この仏性を「如来蔵(にょらいぞう)」とも表現します。「如来(仏)の胎児」が私たちの中に宿っている、あるいは「煩悩(迷い)の殻の中に、宝物(仏性)が隠されている」というイメージです。

泥の中に埋もれていても宝石の価値が変わらないように、たとえ今どんなに悩み苦しんでいても、あなたの本質的な価値や可能性は決して損なわれていないのです。

なぜ「仏性がある」のに私たちは苦しみ迷うのですか?

本来持っている仏性が、厚い「煩悩(ぼんのう)」の雲に覆い隠されており、自力ではその輝きを表に出すことができないからです。仏性があることと、現実に仏であることの間には大きな隔たりがあります。

自力の限界と「凡夫」の自覚

「自分の中に仏性があるなら、努力すれば悟れるのではないか?」と思うかもしれません。しかし、私たち人間(凡夫)は、欲や怒り、ねたみといった煩悩を完全になくすことは極めて困難です。

浄土真宗では、この「仏性はあるけれど、煩悩の泥に深く沈んでいて、自分の力ではどうすることもできない」という厳しい現実(機の深信)を直視します。 だからこそ、自力で修行して仏性を磨き出すのではなく、阿弥陀如来(あみだにょらい)という仏さまの救いの力(他力)にお任せするのです。

人生を変えるのに「修行」はいらない

努力はいつか報われる。置かれた場所で咲く。今のあなたのままでいい。 このようなメッセージは、これまで広く支持されてきました。(中略) 私は、誰でも今すぐ幸せになっていいと思っています。幸せを先延ばしにする理由は何一つありません。わざわざ苦しい努力を重ねたりする必要もないと思っています。 (浄土真宗 慈徳山 得藏寺 二十三世 愛葉宣明『仏陀経営』原稿より引用)

「仏性がある」と聞くと、「だから磨かなければならない」「立派にならなければならない」とプレッシャーに感じる人もいます。しかし、そうではありません。 「今のままで、すでに尊い種を持っている」と認めること。 そして、自分ではどうにもならないことは、阿弥陀さまにお任せしてしまうこと。それが、心を楽にして生きるための秘訣です。

「他力本願とは?」自分をはからわない信仰

仏教の宗派によって仏性の捉え方は違いますか?

はい、大きく分けて「すでに仏である」と考える立場と、「仏になる種がある」と考える立場があります。どちらも「私たちには価値がある」という点では共通しています。

1. すでに覚っているとする考え(本覚思想)

「私たちは本来すでに仏なのだから、そのことに気づけばいい(覚ればいい)」という考え方です。禅宗や天台宗などで重視されます。迷いの雲さえ晴れれば、太陽(仏性)はもともとそこにあったのだ、という捉え方です。

2. 育てていく種とする考え(始覚思想)

「仏性はあくまで可能性の種であり、修行や信仰によって育てていくもの」という考え方です。 浄土真宗の場合は、この世(穢土)で自力で花を咲かせることは諦め、阿弥陀さまの浄土へ往生させていただくことで、初めてその仏性が完全に開花する(成仏する)と考えます。

浄土思想の魅力と世界観

現代社会でこの教えをどう活かせばいいですか?

自己否定をやめて「今の自分のままでいい」と認める根拠にすること、そして他者に対して「あの人にも仏の種がある」と敬意を持つきっかけにすることです。

自分を責めてしまうとき

仕事で失敗したり、誰かと比べて落ち込んだりしたとき、「自分はダメだ」と決めつけないでください。 「今すぐ」結果が出ていなくても、あなたの中には「仏性」という尊い可能性が厳然として存在しています。それは、誰かに評価されたから生まれるものでも、失敗したから消えるものでもありません。 「自分には、仏になる種がある。だから、今のままで大丈夫だ」 そうつぶやいて、自分自身を許してあげてください。

人間関係でイライラしたとき

苦手な人や、攻撃的な人と接するのはつらいものです。 そんなときは、「この人の心の奥底にも、実は仏性が眠っている(ただ、今は煩悩の雲が分厚くて見えないだけだ)」と想像してみてください。 相手の言動を肯定する必要はありませんが、相手の存在そのもの(いのち)まで否定せずに済みます。それだけで、怒りの炎が少し鎮まり、心に余裕が生まれるはずです。

「ある」ことに目を向ける

幸せや安心は、未来に達成するものではなく、今ここで「感じる」ものです。

実際の幸せは「感じる」ことに近く、感じるのはいつも今です。(中略) 感じるものだと受け止めると、幸せは日常の小さなことに見つけることができるようになります。たとえば、雨の朝に窓の外の音をわずかに静かだと感じる瞬間、帰りが遅くなった日の玄関の灯りにほっとする瞬間(中略) 幸せは本来「なる」ものではなく「感じる」もの。 (浄土真宗 慈徳山 得藏寺 二十三世 愛葉宣明『新・第1章』原稿より引用)

仏性も同じです。「いつか仏になる」ために必死になるのではなく、「今すでに、自分の中に尊いものがある」と感じてみてください。ないものねだりをするのではなく、あるものに目を向けることで、日々の景色が変わって見えてくるでしょう。

四苦八苦の意味とは?

まとめ:あなたの可能性を信じて

「一切衆生悉有仏性」は、すべての命に対する究極の肯定のメッセージです。

  • どんな人にも、例外なく仏になる可能性がある。
  • 今は煩悩に覆われていても、その本質的な価値は変わらない。
  • 自力で輝かせられなくても、阿弥陀さまの救いがあるから大丈夫。

もし今、生きづらさを感じているなら、ぜひお近くのお寺に足を運んでみてください。仏さまの前で手を合わせる時間は、あなたの中にある仏性と向き合い、心をリセットする大切なひとときになるはずです。

得藏寺が運営する「仏陀倶楽部」では、 日々の迷いや立ち止まりを、

一人で抱えずに言葉にする場があります。

監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、仏陀倶楽部(BuddhaClub)代表

愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す
現在は誰でもすぐ「得度」をできる活動を推進中。

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