空(くう)とは?仏教の意味をわかりやすく、苦しみがほどける見方

仏教における空(くう)の概念とは何か。

「あの人のひと言が、頭から離れない」

あなたにも、そんな夜はないでしょうか。言われたのは数秒のことなのに、何日も胸の奥に重たい石が残っている。

仏教には、その石の見え方を変える言葉があります。それが空(くう)です。

空と聞くと、「何もない」「むなしい」という意味だと思う方が少なくありません。

でも、仏教の空は、あきらめやむなしさの教えではありません。むしろ、苦しみを抱えたまま固まった心を、少しずつほどいていく見方です。

この記事では、空の意味を「わたし」と「あなた」の関係にたとえてお伝えします。縁起や色即是空とのつながり、暮らしの中でできる小さな一手、浄土真宗での受け止め方まで順番に見ていきましょう。

空の意味とは?「何もない」ではなく「それだけで成り立つものはない」

空の意味を、ざっくりひと言で言うと「実体がない」ということです。

ここでつまずく方が多いかもしれません。目の前に机もあるし、自分の身体もある。それなのに「ない」とはどういうことか、と。

仏教の空は、机や身体が消えてなくなるという話ではありません。

つまり、それ自体だけで、ずっと変わらずに成り立っているものはひとつもない、ということです。

たとえば、朝に飲む一杯のコーヒーを思い浮かべてみてください。

豆を育てた土と雨があり、収穫した人がいて、運ぶ船があります。お湯を沸かす火も、カップを作った人もいます。

どれかひとつが欠けても、その一杯はあなたの手元に届きません。

「コーヒー」という名前の、独立した何かがはじめからあるわけではないのです。数えきれない条件が重なった、その瞬間の姿なのです。

しかも、飲めばなくなり、冷めれば味も変わります。すべてのものは、お互いに支え合いながら生まれ、また消えていく。これをくり返しています。

仏教では、この「固定した中身がない」ありさまを空と呼びます。

空は「からっぽ」ではありません。「つながりでできている」という見方なのです。

今日、身の回りの物をひとつ選んで、それが届くまでに関わった人や物を3つ挙げてみればいいのです。

空とは、何もないことではない。それだけで成り立つものがないことだ。

空の哲学的背景、般若経と龍樹が伝えたこと

空は、お釈迦様のあとの時代に、大乗仏教の中でとくに深く説かれるようになりました。

その中心になったのが、般若経(はんにゃきょう)と呼ばれる経典のグループです。

日本でもっとも知られているのは、300字に満たない短いお経、般若心経でしょう。その中に「色即是空(しきそくぜくう)」という言葉が出てきます。

色とは、形あるもの、目に見えるものです。つまり色即是空とは、形あるものはそのまま空である、ということです。

「形があるのに空とは、矛盾しているのでは」と、あなたは思うかもしれませんね。

でも、先ほどのコーヒーを思い出してみてください。一杯のコーヒーは確かにそこにあります。同時に、たくさんの条件でできていて、固定した中身はありません。

あることと、空であることは、ぶつかり合わないのです。

色即是空については、色即是空の記事でくわしくお話ししています。般若心経と浄土真宗の関係は般若心経の記事をご覧ください。

この空の考え方を、筋道立てて説いた人がいます。2世紀から3世紀ごろのインドの僧、龍樹(りゅうじゅ)です。

龍樹は、「ものは永遠にある」という見方にも、「何もない」という見方にも片寄らない道を示しました。

実は龍樹は、浄土真宗でとても大切にされている人でもあります。

親鸞聖人は、教えを伝えた七人の高僧の一番目に龍樹を挙げました。正信偈(しょうしんげ)には「悉能摧破有無見」という一句があります。

つまり、「ある」か「ない」かのどちらかに決めつける見方を、すっかり打ち破った人だとたたえているのです。

「ある」と「ない」のどちらにも片寄らない見方は、一度読んで身につくものではありません。得藏寺では、今の仕事や生活を続けたまま教えを学び、僧侶として歩む道をご用意しています。修行の場にこもらないその歩み方は、得度についてのページでお話ししています。

白か黒かで決めつけたくなったときは、「どちらでもない見方はないか」と一度だけ問い直せばいいのです。

「ある」と「ない」の間に、仏教のまなざしがある。

空と因果・縁起、「わたし」と「あなた」から考える

空は、縁起(えんぎ)という教えと表裏の関係にあります。

縁起とは、すべての物事は原因と条件が重なって起こる、という仏教の基本の考え方です。

条件によって起こるのだから、それだけで成り立つ中身はない。これが空です。つまり、縁起と空は、同じ真理を別の側から見た言葉なのです。

もう少し身近な例で考えてみましょう。

「わたし」という存在は、「あなた」という存在があってはじめて成り立っています。

少しこんがらがったかもしれませんね。

たとえば、あなたが「わたしは」と口にした瞬間を思い浮かべてください。その「わたし」は、「あなたではない者」としての「わたし」です。

相手がいなければ、「わたし」と言う必要もありません。

同じことは、相手の見え方にも言えます。

「あの人は冷たい人だ」と思っていても、その人は家族の前では笑っているかもしれません。「冷たい人」という中身が、その人の中に固定してあるわけではないのです。

あなたとの関係の中で、たまたまそう見えている姿なのです。

家に帰れば親であり、職場では部下であり、友人の前では聞き役かもしれません。どれも本当のあなたです。そして、どれも相手との関係の中で生まれた姿です。

多くの人は、原因と結果を一本の矢印のように考えます。あの人がこう言ったから、わたしが傷ついた、と。

でも、仏教の縁起で見ると、そこには矢印がたくさんあります。相手のその日の疲れ、わたしのその日の余裕、それまでの二人の関係。

同じ言葉でも、別の日なら聞き流せたかもしれません。

「わたしが悪い」「あの人が悪い」と一か所に原因を固めなくていいのです。

縁起の考え方は、仏教の縁起の記事でくわしく解説しています。「わたし」という固定した中身はない、という教えは諸法無我の記事もあわせてどうぞ。

誰かとぶつかったときは、「この出来事には、どんな条件が重なっていたか」を3つ書き出してみればいいのです。

わたしは、あなたとの関係の中で生まれている。

「仏教の縁起(えんぎ)とは何か?」についてはこちら

仏教の縁起(えんぎ)とは何か?

空の実践的意義、苦しみは本当に「そこ」にあるのか

空の考え方には、暮らしの中で役に立つ大きな意味があります。

それは、あなたが「ここに苦しみがある」と思っているその苦しみも、固定した中身を持っていない、ということです。

「いや、苦しみは確かにある」と、あなたは思うかもしれませんね。

もちろん、つらさを感じているのは本当です。それを否定する必要はありません。

でも、その苦しみも、条件が重なってできています。「こうあるべき」という思い、疲れ、過去の記憶、相手への期待。

たとえば、上司に「この資料、やり直して」と言われたとします。

「わたしは仕事ができない人間だ」と受け取れば、その言葉は一日じゅう心を締めつけます。

でも、「この資料はまだ途中の姿だ」と受け取れば、同じ言葉が次の一手の合図に変わります。

言葉そのものは同じです。重さを決めていたのは、言葉にくっついた「決めつけ」のほうだったのです。

ほかにも、SNSで友人の楽しそうな写真を見て、急に自分がみじめに思える日があるかもしれません。

でも、その「みじめさ」は写真の中にも、あなたの中にも、はじめからあったものではありません。比べるという条件が重なって、その瞬間に生まれた気持ちです。

条件でできたものなら、条件が変われば姿も変わります。スマートフォンを置いて、目の前のお茶を一口飲むだけで、少し薄れることもあるはずです。

仏教では、この決めつけに気づき、「苦しみは実はそこにはない」と実感したとき、苦しみがほどけていくと説きます。

今日からできる「決めつけをはがす」練習

やり方はかんたんです。心に引っかかっていることを、ひとつ紙に書きます。

次に、その横に自分がつけている「決めつけ」を書きます。「嫌われた」「失敗した」「もう取り返せない」など。

最後に、「本当にそれだけか」と一度だけ問い、ほかの受け取り方を1つ書きます。

5分もかかりません。それでも、書く前と書いたあとで、石の重さが少し違うことに気づくはずです。

浄土真宗から見た空、わかりきれない凡夫のままでいい

ここで、正直な気持ちが出てくるかもしれません。「理屈はわかっても、苦しいものは苦しい」と。

浄土真宗では、その気持ちをとても大切にします。

空を心の底から実感し、苦しみを自分の力で消しきること。それができる人は、ほとんどいないと考えるからです。

親鸞聖人は、自分を煩悩を抱えたままの凡夫と見つめました。

わかったつもりでも、また決めつけ、また悩む。そんな人をこそ見捨てないと誓ったのが、阿弥陀さまの本願です。

だから、空の見方を知って少し心が軽くなったら、それをありがたく受け取ればいいのです。軽くならない日があっても、南無阿弥陀仏とお念仏を称え、阿弥陀さまにおまかせすればいいのです。

くわしくは他力本願の記事をご覧ください。

空の教えは、書物の上で理解するだけでなく、人との関わりや日々の暮らしの中で確かめていくものです。その確かめを一生の歩みとするために、得度して僧侶になる方もいます。

苦しみに貼ったラベルは、はがしていい。はがせない日は、まかせていい。

仏教における空(くう)の概念とは何か。

空に関するよくある質問

空の読み方は?

仏教の言葉としては「くう」と読みます。「そら」や「から」と読むと、別の意味の言葉になります。

空と無の違いは?

「無」は、ないことそのものです。空は「ない」ではなく、条件によって成り立っていて固定した中身がない、というありさまです。机は存在しますが、それだけで成り立つ机はない、と考えるとわかりやすいでしょう。

空とは、すべてがむなしいという意味ですか?

違います。空は、物事がつながり合って変わり続けているという見方です。むしろ、決めつけから自由になり、今の関係を大切にする教えと言えます。

空と色即是空の関係は?

色即是空は、般若心経に出てくる言葉で、「形あるものはそのまま空である」という意味です。空の考え方を短く言いあらわした代表的な一句です。

空と縁起は同じものですか?

同じ真理を、別の側から見た言葉です。縁起は「条件が重なって起こる」という成り立ちを、空は「だから固定した中身がない」というありさまを言います。

浄土真宗でも空を学びますか?

学びます。空を説いた龍樹は、親鸞聖人が七高僧の一番目に挙げた方です。ただし浄土真宗では、空を自分の力で悟りきるのではなく、煩悩を抱えたまま阿弥陀さまの本願にまかせる道を大切にします。

まとめ、空の概念を暮らしに活かす

空とは、それだけで成り立ち、ずっと変わらないものはひとつもない、という仏教の見方です。

「何もない」「むなしい」という意味ではありません。すべてはつながりの中で生まれ、変わり続けている。縁起と同じ真理を、別の側から言いあらわした言葉です。

「わたし」は「あなた」との関係の中にあり、あなたが抱えている苦しみもまた、固定した中身を持っていません。

今日、心に引っかかっていることをひとつ思い浮かべてみてください。そして「これにどんな決めつけを貼っているだろう」と見てみてください。それが空を暮らしに活かす最初の一歩です。

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監修者 「愛葉 宣明」

僧侶、著述家、仏陀倶楽部(BuddhaClub)代表

愛知県名古屋市出身。浄土真宗大谷派である名古屋大谷高校卒業後、20歳で独立起業。自動車販売業、美容事業、飲食事業、リサイクル事業と、次々に事業を立ち上げる。
独立起業後10年を経て自身の中に湧きあがる疑問と向き合うため、事業を整理し、ヨーロッパを中心に世界30カ国以上を旅する中で、多くの宗教や文化、習慣や常識の違いに触れる。
「人は生きているだけで毎日が修行」という考えに至り、時代が変化しても自然淘汰されない“在り方”を仏教に見出す
現在は誰でもすぐ「得度」をできる活動を推進中。

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